402号室の鏡像

あるいはその裏側

現実を侵食する虚構『シン・ゴジラ』感想

 シン・ゴジラを観てきました。上映開始から既に結構たっているにも関わらずその評判はウナギ登りで、もはや観客動員数一位だとか、今までのゴジラ映画とは一線を画したような話題っぷりに正直驚きを隠せないというのが今僕が抱いている正直な気持ちです。何というか、僕にとってゴジラってのは常に「子供向け」と言われていて、興味がない人にとっては目を向ける対象でも無かったという認識だったので、正直ごく普通の、特にオタクでも無い人が「シン・ゴジラ面白かった!」と言っているのを見ると、今凄いことが映画界に起こっているんだなと実感する。勿論、長谷川博己石原さとみ竹野内豊などと言う日本を代表する豪華俳優陣のネームバリューや、同じく日本が誇る名作『新世紀エヴァンゲリオン』を創った庵野秀明平成ガメラシリーズで名を馳せた樋口真嗣など、出演俳優から制作陣までかなり豪華な人材を取りそろえた上での評判とも言えるのはそれもまた事実だろうが、何よりも、作品自体から発せられる映画としてのクオリティの凄まじさ、難しいこと抜きにしても圧倒的な絵力に魅せられてしまうほど圧倒的なパワーを、僕はシン・ゴジラを初めて観た時に感じた。

虚構を成立させる為に徹底されたリアリティ

 シン・ゴジラを初めて見た時僕が感じたのは何より作品全体から発せられる「現実感」だった。一番最初、横浜沖で、小型船「グローリー丸」*1が漂流しているのを海上保安庁が発見したシーンをハンディカメラで撮影している所から、車載カメラが崩落する海底トンネルを映していた所、そしてトンネルから避難している所を動画サイトやSNSの描写を交えて撮影している所は、まさしく自分も記録映像や実況中継を観ているような感覚を冒頭で味わってしまった為、もはやその時点で「怪獣が存在する予感というもの」が現実味を帯びて自分の中に準備されていた。

 更に、何よりリアルだと感じたのがこの物語の主軸を占めると言っても良い会議描写だ。予告編では不安要素でしかなかった会議シーンも、物語が始まってみればもはやそれは快感でしか無かった。現実の政府関係者の間で行われている会議の描写が本当にリアルだったのか僕には分からないが、徹底した政府組織へのリサーチの元作り上げられたという話し合いの場面は、矢継ぎ早な会話の応酬にも関わらずすごく分かり易く作られていたと思う。各省庁の閣僚達が集まる中で各々の立場で意見を出し合い、あくまで様々なケースを想定した上で国民へと伝える。例えば災害が起こった時などに「こういうことが裏側で行われていたんだな」という一種のドキュメンタリーテイストな描写として、説得力ある絵作りが構築されていたと思う。更に言うと、基本的に劇中に登場する関係閣僚達のほぼすべてが有能だというのもこの物語の良い所だと思った。最初、海底トンネル事故が発生した際の会議シーンで、矢口の「巨大生物が原因かもしれない」という想定は馬鹿馬鹿しいと一蹴されてしまったが、それは現実的に考えてみれば当たり前の反応だろう。巨大生物など居る訳がない。海底火山の噴火と言うほうがまだ現実味に溢れている。しかし矢口の推測は不幸にも的中してしまい、そこから先、日本の優秀な頭脳たちによる判断が、ゴジラの出現によってどんどん裏切られていく。

 基本的に無能な人間はこの物語に登場しない。これが『シン・ゴジラ』を引き立てるひとつの魅力だと個人的には思う。よく政治や人間同士の駆け引きが主題となるドラマだと、利権を得る為に悪事を企てる人間だとか、誰かの提案を否定したいが為に足を引っ張るなど、または保守的な意見ばかり提示して、それゆえに多くの被害を出してしまうと言うような、つまり分かり易い悪が提示することで主人公側を引き立てるような描写があったりする。しかしシン・ゴジラの場合、誰もが国民の事を思い、最善の手を尽くす為に決断する。その代表が大河内総理大臣で、彼は始め、巨大生物の登場に対しておとぼけなリアクションをしたり、怪獣の出現にあたって「上陸はない」と断言してしまったり、自衛隊の出動に対して決断を渋ったりする。しかしそれは当たり前な事で、前例の無い事例に相対してしまえば決断は特に難しいだろう。日本国民の命を背に預かる身だ。安易な決断や前例の無い判断には考える時間がいるだろう――しかし、巨大生物の侵攻が都市に迫る今、即断せねばいけない自体がある。いざ二回目の上陸の際には既に覚悟を決めており、国民を守る為に自衛隊による総火力攻撃を命じた大河内総理の顔つきは、まさに一国のトップとして相応しいものだった。

 しかし、彼らの決断を容赦なく裏切ってくるのが、ゴジラと言う怪獣の恐ろしさだ。だからこそ面白い。キャラクター達が考える数々の対策や攻撃を何度も裏切って、ゴジラは驚異的なまでに進化していく。まさにこの時、ゴジラを見る矢口達の視点と視聴者である僕らの視点は間違いなくリンクしていた。怪獣と言うものを初めて目にする矢口達の視点は元より、ゴジラなどの怪獣映画で目が肥えた僕らでさえも予想だにしないゴジラに驚かされていた。矢口達が的確に下した決断、多摩川沿岸に展開した自衛隊の総攻撃、そして米軍の爆撃――それらの悉くを凌駕して尚、その場に屹立し続ける破壊神、ゴジラ。僕らが知っている現実の風景やその裏で下されていたであろう政治的判断の全てを、人間の理解を超えた道理で破壊し尽くすゴジラに対して僕らが畏怖に近い気持ちを覚えたのは、一重にスクリーンの世界が僕らの住んでいる現実世界と限りなく地続きに見えるようなリアリティが構築されていた事に他ならない。ゴジラの存在を他人事と思えず、いつか僕らが体験したような一種の「災害」と思わせてしまうような説得力がシン・ゴジラには存在する。ゴジラが通り過ぎたあとに残されたガレキや、放射線の拡散など、日本人なら実際肌で感じたような、あの薄ら寒い実感を帯びたおぞましさが、この映画には存在している。

 以前『虐殺器官』などを執筆した伊藤計劃という作家が『ダークナイト』を表する時に、平成ガメラを引き合いにこういうことを言っていた。

オタクなら誰でも夢見ているのではないだろうか。大金を掛けて、自衛隊などのリアルな軍隊が出てくる怪獣映画や、現実に仮面ライダーが存在したら、とかそういう「リアルさを持った漫画映像」を。それらは実際にはちっともリアルではない、というか怪獣とかその能力とか(オタク文化に対して愛のない「空想科学読本」によればそもそも怪獣やウルトラマンは立っていられない)、多分にフィクショナルな部分は保留しつつ、その外堀はガンガン現実の事物で埋めていく。それはオタクだったら多くの人が理解してくれると思う「願望」だ。そして平成ガメラに対する評価とはまさにそれであった。「防衛軍」でなく、モノホンの自衛隊が短SAMや90式やペイトリオットで対応する。「もし本当に怪獣がいたら」という妄想の許に渋谷を火の海にしたとき、ヒーローであるガメラに「被災」してしまった少女というキャラクターが出てきたとき、全国のオタクは驚喜したはずだ(違う?俺はそうなんだけど)。

表紙 - 伊藤計劃:第弐位相

 シン・ゴジラはまさにそういう作品であったと思える。勿論平成ガメラも非常に良く出来た作品で、樋口真嗣監督がシン・ゴジラに対してガメラ的DNAを継承しているのもおそらく間違いない。実際、中盤の東京炎上は、かつてガメラ3で見たような渋谷炎上、そして京都炎上を現代に蘇らせたと言っても過言じゃない破壊描写だった。夥しい数の破壊が巻き起こされながらも美しいと思ってしまう、賛美歌を思わせるBGMをバックに瞬き続ける破壊光線。まさに裁きの神が舞い降りたのかの如き、黙示録の光景の具現のような光景は、ただ、ただ見入るばかりだった。米軍の干渉や、避難の光景など現実的なシーンをどんどん積み重ねてきた後で一気に畳みかけるようにもたらされた幻想的光景、そして圧倒的破壊。ただ単に、いつものゴジラのように放射熱線を吐き出しただけなら、ここまでの感動は無かっただろうに、今まで徹底して描かれた現実があったからこそ、あの幻想的な恐ろしさが具現したのではないかと個人的には思った。

だからこそ、荒唐無稽な展開に力を感じる

 そして何を隠そう、ヤシオリ作戦からの無人在来線爆弾。これを語らずにして何がオタクか。日本の首都に密集する何万もの人間を乗せて走る僕らの在来線が爆薬を乗せて走るだなんて、一体どこの誰が立案した作戦なのかと思いきや、これも実は爆薬を乗せ威力を保つ為にもっともらしい理由が付けられているという凄さ。フェイズドアレイレーダーじみた自動迎撃システムでミサイルなどの攻撃を全て無効化する中、ドローンで飽和攻撃を行いエネルギー切れを誘発、更に無人在来線爆弾で足場を掬い、近辺のビルを爆破し拘束、その間に血液凝固剤を使い、ゴジラを凍結させようとする、一見荒唐無稽な流れが「ああ、これは特撮映画なのだな」と、実感させてくれる。それも、例えばメ―サー戦車やスーパーX、あるいはメカゴジラやモゲラなど、今までのゴジラ作品に登場した超兵器、メカは存在しない。現実の中心に屹立した虚構存在に立ち向かうのは人間の叡智、まさに日本人ひとりひとりの意地というのがまた熱い。血液凝固剤を製造する為に、官民一体となりタイムリミットに間に合わせようとする。この日本に第三の核兵器を落とさせない、その為だけに日本人が団結して立ち向かう様というのを見ると、2014年版のハリウッドゴジラと比較して考えてしまう。あちらの国では国土内で核兵器を使うことを容易に決断したけれど、こちらの国では既に二回、核兵器が使用されたという事実がある。核兵器、あるいは放射能について人一倍敏感で、忌避している国民性だからこそ、その決断に対しノーを突きつけ、最後まで模索していくというのがまさしく日本ならではの物語展開だと思う。

能天気なハッピーエンドに終わらないのがまた良い

 ヤシオリ作戦は成功。ゴジラを凍結させるのに成功し、日本に核が落ちることは辛くも防がれた。しかし核投下のカウントダウンはまだ続いており、この後も日本は、ゴジラの存在する、虚構混じりの風景で生きていかなければならないことを予感させ、不穏な空気を残したまま終わる。最後にアップになった尻尾が更なる不安を煽り、単純なハッピーエンドを許さない所が様々な解釈を生む元となり、これもまた話題性の種となっている。確かに、ゴジラという存在を抹殺出来ないままに、そのままこの土地で生きていかないというのは、原発事故の比喩だとか、現代社会を風刺する目線でも解釈できる。しかし、矢口達は言う。この国はスクラップ・アンド・ビルドで生まれ変わってきたと。戦争や災害で破壊されつつも、何度でも立ち上がり、既存の体制からより良いものになるようにと国土や政治を作り変えてきた。だからこそ、今度は俺達が良くしていくという気概が、あの世界の政治家にはあった気がする。しかし、希望だけではない。あのゴジラには、既存の科学では考えられない程の何かが眠っている。世界各国がゴジラから採取出来る新元素やテクノロジーを求め謀略を展開するかもしれない。あるいは、ゴジラの存在を盾にし、日本が何か策略をめぐらせるかもしれない。世界を滅亡に導く悪魔的存在を、いつでも蘇らせられる国家――そう、核保有国ならぬ、ゴジラ保有国家となった日本が下手をすれば暴力的方面に突き進むことだって、幾らでも考えられる。絶望と希望が相反する、単純ではない終わり方、それがシン・ゴジラのラストだった。

ラストの解釈について

 ゴジラの正体について、最後まで明確には語られなかった。古代生物が放射性廃棄物により突然変異した存在だとか、何も食べずに空気だけで生きられる完全生物だとか、従来の生物では考えられない速度で進化する存在だと言うこと以外に語られたことは乏しかった。元々のゴジラは太古の生物の生き残りだとか、恐竜だったとか、イグアナだったとか正体がある程度は推測出来る生物だった*2けれど、今回に関しては我々の常識の範疇から外れた存在として描かれていた。そのことを踏まえて考えると、あの尻尾がアップになったラストに関しても見逃すことは出来ない。多くの人が気付いているように、あの尻尾には何かがいる。人骨じみた何かが埋め込まれており、ここからヒトガタの何かが出てきそうな予感が、多くの視聴者から指摘されている。*3確かに、ゴジラは海棲型から両生類じみたカタチに、そして恐竜のようなカタチへと、生命体の進化を模したかのような成長を続けていた。だからこそ、今度は霊長類、人間の形をして増殖するのではないか。群体化し、飛行能力まで持つ霊長生物。さながら、黙示録のラッパを鳴らす天使のごとく。

牧博士が行ったこと

 牧博士の失踪とゴジラの登場が、全くの無関係であるはずがない。牧博士が「私は好きにした」と遺書じみた伝言を残した後、ゴジラが現れたことから、博士が何らかの仕掛けをゴジラに施したのは明らかだろう。個人的な考察として、博士は自分自身をゴジラに与えた=人間としてのDNAを取り込ませたのではないかと思う。最後に霊長類じみた形に変異しようとしていたのは、牧博士が自ら、もしくは人間の遺伝子をゴジラに投与し進化を促したからではないか?と考えると、多少は腑に落ちる。少なくとも、牧博士がゴジラに対して何らかのアプローチを行い、それがゴジラ覚醒のきっかけとなったのは間違いないだろう。*4

とまぁ、色々と語ってはみたけれど。

 まだまだ語りきれない部分があるくらいにシン・ゴジラは奥深く、そして面白い。現実に即した虚構を成立させる為に細部まで綿密な考証を行い、尚特撮らしい浪漫を演出したことは凄いの一言だし、それを一部のファンだけでなく多くの観客を魅了させたというのが、まさにこの作品の素晴らしさだと思う。こだわるところをこだわって、一部のオタクだけに理解し支持される作品を作り上げるだけでも凄いのに、その細部をこだわって尚万人受けする作品を作れるヒットメーカーに庵野秀明はなったんだなと言うのが正直な感想なのかもしれない。とにかく、すごい作品。素晴らしい作品だった。

*1:84年版ゴジラ冒頭のオマージュだと思う。

*2:そういえば、太平洋戦争の怨念集合体だったゴジラも居た

*3:あれが飛行能力を得た霊長類じみた生物、つまり「巨神兵」になり得るという指摘は面白いなと思った。まぁ、そのままそういうことになるとは思えないけど、あれが『巨神兵東京に現る』に繋がるセルフオマージュ的な解釈は面白そうだ

*4:皮肉にも、博士が海に潜ってゴジラを殺した初代と対になっているのが面白い

振り返らない物語から、振り返る物語へ。『君の名は。』感想

 『君の名は。』を観てきた。単純に、とても良い作品だったと思う。元々、新海誠作品は大好きで、『ほしのこえ』から『言の葉の庭』まで、毎度楽しみに観させていただいた監督の作品なので、今作も前々から期待していた。期待に違わない名作で、今現在絶賛されているのも納得な出来だったと思う。
 
 ただ、正直な所不安要素が大きくて、予告編だけ見ると個人的に苦手な要素がとても多そうで*1、何となく、大衆的な部分が多くを占めてしまっているのではないかという怖さがあった。というのも、新海誠監督は、完璧過ぎた思春期の憧憬だとか、決して縮まることの無くなってしまった男女の距離や、もう戻らない絶対的な時間の経過により生まれた断絶、幻想的過ぎる都市の描写など、観る人から観れば「拗れている」と形容されるが、理解出来る人には本当に心に刺さるような作風で多くの人を魅了していて、僕もそのひとりだった。だからこそ、さわやかな青春や恋愛作品を想起させる『君の名は。』に対して、どこか僕は忌避するような感覚を抱いていた。たぶん多くの人はこのような清涼感ある作品を求めていて、それはきっと正しいのだろうけど、ただ単純に、今まで新海誠作品を観ていた僕は「何かが違う」と一人勝手にすれ違いのような思いを抱いていた。予告編を観た人たちの前評判でも僕と同じ感覚を抱いている人が多くて、実際公開してから今日この日まで僕は劇場に足を運ぶ気が起きなかった。

 それで、いざ『君の名は。』を観に行く勇気を振り絞る為に、わざわざ早起きまでして美容院まで行って髪型を整えて、あえて日曜日を外した月曜日、人が少なそうな時間帯を狙って劇場に足を運んだ。だけど見回してみれば辺りは女性、小学生、中学生。以前都内に『言の葉の庭』を観に行った時とはまるで違う客層に、はたまた胸の内のこじらせた感覚が頭を出して、押さえつけるのに必死だったけれど、とにかく序盤は自分の中のこじらせ感を黙らせるのに苦労していた。主人公の瀧とヒロインの三葉はいままでの新海誠作品に出てくる登場人物の中でもトップクラスに真っ直ぐで、ふたりとも年頃にかわいくて、ドタバタしてて、そのふたりの入れ替わりがラブコメチックでとても楽しかったのだけど、どこからしくない感じに「面白いけどこれは違う」という感覚が頭を占めていた。

今までとは違うけれど、これは紛れもない『新海誠』作品で

 けれど突然、入れ替わり現象が起きなくなって、その真相を調べに三葉の住んでいた村へと瀧が訪れたところ、実は三年前に彗星の破片が衝突して、村は消滅していたことを知る。多くの人が死に、その中に、入れ替わっていたはずの少女、宮水三葉が居た――という展開には度肝を抜かれ、ここから先はのめり込みっぱなしだった。死んでいたはずの人間、時空の乱れ、物理的以前に断絶された運命、会いたいけれど会えない時間の距離――いままでの作品で培われてきた新海誠作品のエッセンスが炸裂し始めるなれど、それでいて、真っ直ぐな物語の流れがとても楽しい。時間的にも遠く離れていて、どこか不明瞭な存在なれど、オレはここにいて、お前もここに居るという、物理的にも時間的にも届かなくても、心だけはそばにいるよという『ほしのこえ*2を想い起こさせるような展開だった。だけれど決して会えない訳じゃなくて、あくまで会いに行こうと三葉が上京したり、もしくは瀧が三葉の村に行こうとするなど、二人とも「繋がろう」とする意思があった所も良かった。『秒速5センチメートル』の場合は、会おうと思えば会える距離にも関わらず、実際に会わずに貴樹自身が想いを募らせ過ぎてしまったという部分があって、お互いに会おうというバイタリティの強さ、若さがゆえのエネルギーを感じられた所が面白かった。実際に二人が会っていたということが、三葉の髪留め、そして瀧が手に巻いている紐という伏線があって、そこで時間のズレというものをよく表現していたんだなと思う。スマホやチャットの存在など昔とは違って、どこの誰とでも会おうと思えば会える現在の時代において、簡単に会えるはずが、実は三年の時間のズレという途方もしれない断層があるというのがこの物語の落とし穴であり、また奥深いところ。

 彗星の破片が村に墜ちるという話を聞いてから、破滅の運命を回避しようと、時間が違う場所で懸命になる所は、正直もう少し描写が欲しかったなと思う。三葉と父の間の確執があって、にも関わらず、どうして三葉は最終的に父親を説得できて、村人たちを大災害から救うことが出来たのかという疑問は残る。それでも危機的状況を前にして、大人たちの知らない所で少年少女が奔走するという流れはセカイ系あたりの雰囲気を感じて、ゼロ年代を彷彿とさせる感覚で好きだ。ぼくときみが救った世界だけど、他の誰の記憶にも、英雄的行為の記録は残らない切なさ。

 そして、ぼくらでさえも結局、このことは忘れてしまうのだ。時間が経過して、記憶自体が風化してしまって、またも夢物語のようだった時間が現実の乾燥した空気に呑み込まれてしまうというのも切ない所。就職活動で巧くいかず、なんとなく、かたちのみえないなにかを追いかけている瀧。一体何が自分を引き付けているのか分からないもどかしさというのは、思春期から大人になるにかけて僕らもきっと経験したはずで、この辺りは『秒速5センチメートル』と同じような、思春期の出来事に対する憧憬的な心の痛みを感じた。

なんとなく、腑に落ちない部分も多いのだけれど

 ただ、単純に、三葉が奉納した口噛み酒*3を飲めばもう一度入れ替われるだとか、ちょっとした疑問点が多くて、そういう場所は気になった。宮水の家系には代々入れ替わり能力があったという所から考えると、入れ替わり能力自体は、最初に村に隕石が墜ちた際に、宮水の家系に突然変異的に生じたものであり*4、そのクレーターの場所で、宮水に縁のあるものと肉体的接触(唾液の交換=疑似的な接吻?)をすれば入れ替われるなんて考察も出来ると思う。隕石の墜ちた場所で突然変異が起こるとか、伝奇SFとかの展開では散見出来るし、もそういう所を考えると非常にSF的で楽しい部分もある。

 しかし、未だに考えても分からないのが「どうして瀧でなければ無かったのか」という所だ。宮水の家系に入れ替わり能力があるとして、一体なぜ、縁もゆかりも無い、遠く離れた東京の地に生きる少年が、三葉と入れ替わらなければならなかったのか。男女の出会いとか、人と人とのつながりとか、そういうものに理由はいらないとかいう考え方も出来るし、同じ日、同じ時にあの彗星を見上げていたという理由付けも出来るけど、どこかはっきりと「ぼく」と「きみ」が繋がる決定的な理由を見つけられなかったという点は、僕の中で生まれたもやもやの理由だと思う。

 ただ、そういう明確な理由付けがこの物語に無くても『君の名は。』が傑作であることは明確だと思う。SF的リアリティなんて難しいものは犬に喰わせてしまえ、大事なことはつまり「きみ」と「ぼく」の思いなんだという一貫した作風の流れを感じて、その辺りはあくまで分かりやすさや面白さを重視した展開だと思えば、作中の矛盾とかを割り切って、きっと純粋な心で物語を楽しめる。

「振り返らなかった」物語から、「振り返ることができた」物語へ

 多くの人が感想や考察で書いているように、『ほしのこえ』では逢えない距離にまで離れてしまった物語を、『秒速5センチメートル』は、逢えないことで分岐点が分かれてしまった二人の物語を。他にも様々な理由で男女の断絶や、会えない距離や結ばれない切なさを描いてきた新海誠が、最終的に「逢えた」物語を描いたこと自体が『君の名は。』の価値なのだと僕は感じた。振り返らない物語から、振り返る物語へ。自分自身が描いてきた作品に対するセルフアンサー的な作品である側面も、存在するのかもしれない。

 想いは時を超越する。愛は地球を救う。遠く遠く離れていても、きみのことが分かるように。難しいことは言わずにそれでいいんだと思う。きっとそれで。

 どうやらこのスピンオフ小説で三葉側の話が掘り下げられるということで、物語の不明瞭な部分が補完されることも期待したい。作者の加納新太さんは『秒速5センチメートル』のノベライズでもとても素晴らしい文体で別視点の物語を書いてくれていたので、これを読むのが凄く楽しみ。
lilith2nd.hatenablog.com
 公開当時に『言の葉の庭』の感想も書いてますので、こちらもよろしければ。

*1:何がキツイかって、僕が高校生の頃から苦手なRADWIMPSが主題歌で、その点一番不満だったのだけど、実際見に行ったらやたらと感動的な場面で挿入歌に使われてて、それが一番つらかった。人気なバンドだから仕方ないけど、この一点が非常にストレスで、感動の五割くらいは失われていた。個人的な好みだからもはやどうしようもないけど、そのどうしようもなさが余計につらい

*2:携帯のメッセージでのやりとりが『ほしのこえ』で、かつ、携帯が無かったがゆえに遠かった二人の距離を描いた『秒速5センチメートル』を踏まえると面白い

*3:僕も三葉ちゃんのアレ飲みたいですね

*4:クレーターや隕石、流星群が超常現象の引き金という事で『黄泉がえり』を思い出した。

歌姫庭園10お疲れ様でした。お礼とあとがきの代わりに

 歌姫庭園10参加された方、サークル参加者一般参加者お互いにお疲れ様でした。僕は諸事情でその場に足を運べなかったのですが、ツイッターの様子では大盛況のようで僕も嬉しかったです。一万字程度のコピー本ですが、僕が七尾百合子に対して思う気持ちに共感して頂けたらとか、単純に物語として楽しんで頂けたら幸いでございます。

 さて、小説のあとがきに代えてですが、本の内容について少々。

 単純に、僕自身が女の子同士がわちゃわちゃする話が苦手とか、ほんわかなストーリーを書くのが苦手という気持ちが大きくて*1、そういう意味でアイマスのコンテンツを愛する気持ちはあってもなんとなく二次創作に手が伸びずに居た現状があったのですが、そこで思いついたのが「第三者目線でアイドルを見る」という物語の形式でした。

 いろんな人が既にこのスタイルで小説やら漫画を書いているので何番煎じだよという話なのですが、この書き方は個人的なアイドルマスターのプレイスタイルになんとなく近かったんですよね。僕自身がプロデューサーとして積極的にアイドル達を導くのではなく、彼女たちが自分の力で困難を解決し、栄光を掴み取るまでの道筋を、その物語の脇で見守っていたい。そんな些細なアイドルとの関係が僕の中でのプロデューススタイルでした。*2だからこそ七尾百合子のデビュー前とデビュー後をクラスメイトの男の子の目線を通して書く次第に至った訳ですけど、それで一番書きたかったのは何かというと「デビュー前もデビュー後も、七尾百合子という少女の骨子は変わっていない」という所です。

 一介の文学少女だった彼女が、何故大衆の目に触れて歌い、踊るアイドルを目指したのか。運動神経も頭脳も平凡な少女は、何故そのまま、普遍的な人生を送る選択肢を選ばなかったのか。

 それはきっと百合子が語った「百年後まで読まれ続ける一冊の本のように誰かのココロに残るアイドルを目指す」という言葉に集約されていると僕は思います。様々な人に、色々な形で自分の姿を見てもらうこと、彼女が古今東西、新旧問わず多くの本に紡がれた物語に多くを学び、夢や希望を抱いたように、それは自分自身の物語を多くの人々に語り継ぎ、多くの人々に希望を与える存在になりたい――と、僕はそう言い切った七尾百合子に、途方もない強さを感じました。デビュー前からこんなことを誰に臆することなく言いきれたならば、彼女が抱いた理想はきっと、最後まで色褪せること無く輝き続けるだろうなと、僕は彼女の言葉に眩しくも、頼もしさを覚えました。

 ある時は魔女に、ある時は海賊に、ある時はヒーローに――際限無き好奇心を瞳に讃えた彼女の可能性を叶えられる可能性があるのが、きっとアイドルという存在で。だから、彼女はこれからもきっと、夢を目指してただ走り続ける。理不尽に歯噛みしようと、悔しさに涙を流せど、きっといつだって、何度だって前を向いて、その瞳でまだ見ぬ未来を見据え続ける。

 そんな七尾百合子の姿に魅せられ、そして惹かれた人はきっと僕以外にもいるはず。ある少年の記憶、思春期の一幕に色濃く残った少女の姿が、この物語の主題でした。

 これからもそんな彼女を見守っていきたいと思うと同時に、彼女の魅力や可能性を広げられる物語をもっと書いてきたいと執筆を通じて再確認しました。

 またの機会に何か書くと思うので、その際は是非よろしくお願いいたします。

*1:銃弾が飛び交ったり人類が滅亡したりグロテスクなモンスターが人間を捕食したりする作品のほうが得意です

*2:赤羽根Pとか武内Pは相当に作り込まれたキャラクターとして物語の中に挿入されているので、積極的にアイドルたちと関わっていても物語として違和感無く成り立っている。だからあれは僕らの分身には成りえないひとりの人間で、だからこそ仮に僕がアイドルマスターのPとして関わるとしたら、最低限の干渉でいたい

【告知】6/19(日) 歌姫庭園10参加予定。アイドルマスターミリオンライブ小説本『いつか、透明な明日を』頒布します

 唐突ですが告知。6/19(日) 歌姫庭園10にて アイドルマスターミリオンライブ小説本『いつか、透明な明日を』頒布予定です。表紙絵はかみやさん(@ )にお願いしました。コピー本でお値段は100円。サークル名『時計草』にてスペースは歌姫22ですので、参加される方は是非ともお立ち寄り下さいませ。サンプルはこちらになります。
www.pixiv.net
 後書きっぽいことはまた後で語るとして、アイマスPとしてアイマス、もといミリオンライブというコンテンツに二次創作として参加してみたかったことと、担当Pとして七尾百合子について思うことを表現したいなと常々思っていたので、物書きの端くれとして彼女のお話を書く機会を頂けて嬉しかったです。

 超久しぶりに善良なお話を書いたので、そろそろ猟奇性を発揮できるお話に戻りたい。
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「君はどっちに付く?」『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』感想

シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ-オリジナル・サウンドトラック

シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ-オリジナル・サウンドトラック

シビル・ウォー (MARVEL)

シビル・ウォー (MARVEL)

マーベルコミック原作「キャプテン・アメリカ」シリーズの第3作。マーベルヒーローが集結した「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」後の物語となり、キャプテン・アメリカとアイアンマンという「アベンジャーズ」を代表する2人のヒーローの対立を描く。人類の平和を守るアベンジャーズは戦いは全世界へと広がるが、その人的・物的被害大きさから、アベンジャーズは国際的な政府組織の管理下に置かれ、無許可での活動を禁じられる。一般市民を危機にさらしてしまったことへの自責の念から、アイアンマンはその指示に従うが、「自らの行動は自らの責任で持つべき」という持論のキャプテン・アメリカは反発。2人の意見はすれ違い、一色触発の緊張感が高まっていく。キャプテン・アメリカ、アイアンマンらおなじみのアベンジャーズの面々に、アントマンやブラックパンサー、そしてスパイダーマンと新たなヒーローも続々参戦。

シビル・ウォー キャプテン・アメリカ : 作品情報 - 映画.com

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』を観てきました。ネタバレ込みの感想なのでご注意を。

 マーベル・シネマティック・ユニバースの最新作でありながらも『キャプテン・アメリカ』シリーズの三作目である今作。前作『ウインター・ソルジャー』がアメコミ原作映画でありながら、濃厚なアクションにミリタリー要素、そして9・11以後を思わせる現実の社会情勢に、ウォーターゲート事件対テロ戦争を連想させる政治的陰謀論を絡ませたポリティカル・スリラーとして相当上質な出来となっていたので、それを監督したルッソ兄弟が『シビル・ウォー』を撮るということで否応なしに期待が高まっていた。実際観てみると、単なるヒーロー映画ではなくシリーズで起きた出来事を存分に踏襲し、でありながらもヒーロー個人の内面にコミットした情緒溢れるキャラクター描写に加えて、存分に画面を縦横無尽するヒーローたちが登場するお祭り映画として、まさに今までのシリーズの良い所を集めた大傑作だったと思う。

スティーブ・ロジャーズ、そしてトニー・スターク

 原作ではスーパーヒューマン登録法を巡って、そして映画ではアベンジャーズが国際連合の統制下に置かれることについての是非について、陣営内で賛成派、反対派に分かれて争いあう羽目になってしまう物語だった。ニューヨーク、ワシントン、ソコヴィア、そしてラゴス。アベンジャーズが正義の為に戦っていた裏では多くの犠牲者が後を絶たず、世間は正義の味方に対して、底知れぬ恐怖を抱き始めていた。ゆえに世界は彼らがある程度管理されるべきと、世界中が協議したうえでアベンジャーズが出動するべきという「ソコヴィア協定」という決まりを提示した。
 
 まず真っ先に賛成したのはトニー・スタークだった。彼はウルトロン計画の失敗によりソコヴィアを崩壊させた原因を作りだしてしまった張本人であり、遺族にそれを責められたりして、力を持ちすぎた自分たちの行動に歯止めをかけようとしていた。国連という巨大組織の中に身を置けば、またしても自分たちが間違える可能性を最小限に押しとどめられるかもしれないという考え方だ。

 一方、それに反対したのがキャプテン・アメリカスティーブ・ロジャースだった。そもそも、スティーブは根本的に組織というものに不信感を抱いている。生まれてこの方信じていたアメリカが、実はヒドラという極悪組織の巣窟となっていたという前作『ウインター・ソルジャー』の出来事を踏まえて「もし仮に間違った命令だったらどうする」という、自分たちの力が悪用される危険性を唱えていた。キャプテン・アメリカもといスティーブ・ロジャースはアメリカを心の底から愛する真の愛国者であり、一度は国を護る為に自らの命さえも犠牲にした。しかし永い眠りから目覚めた後、アメリカ、そして世界に裏側には悪が根を張り、実を付けていた。だからこそキャップの判断基準は自らの内側に存在する。自らが愛した国、アメリカ。その国が間違い、悪しき方向に行こうとするなら自らが立ち向かい、正す他無い。だからこそキャップはSHIELDの内側に悪が存在すると気付いた時、組織を壊してまで国を正しい方向に導こうとしていた。

 さて、そもそも二人は、どういう経緯でヒーローになったのだろうか。ここを遡ることで、二人の行動原理が見えてくる。

 スティーブ・ロジャーズは貧弱な体付きだったものの国を愛する気持ちだけは人一倍ある青年で、そんな彼がスーパーソルジャー計画の被験体として選ばれたことから、人間を超えた身体能力を持つキャプテン・アメリカとして戦うことになる。超人になったことに驕ることなく、弱かった自分を乗り越えて、自らの信念を固く持ち続けて戦い、ヒドラの脅威からアメリカを護ったキャプテン・アメリカは、彼がいなくなった後も伝説として語り継がれてきた。そして、永い眠りから覚めた後も変わないスタンスで彼は自らが信じるものの為に戦い続けている。

 一方、トニー・スタークは元武器商人であり、自らが作り出した兵器によって大富豪とも言える富を築いていた。しかしその武器が実はテロリストに横流しされ、多くの人間を傷つけていたという事実を知った時から、彼は自分が作ったスーツを纏い、アイアンマンとして戦う決意をした。その後はアベンジャーズとしてテロリストや宇宙人など多くの人間から世界を救ったが、アイアンマンとして戦うことに対しトラウマを抱えてしまったり、かつて多くの人間を間接的に殺めてしまった罪はそう簡単に忘れられるものではなく、報復として愛する人を巻き込まれる恐怖と隣り合わせにもなってしまった。それに加え、自らが開発した人工知能によりソコヴィアを壊滅状態に陥れ、それにより世界中から糾弾される身となってしまった。

 つまり、キャプテン・アメリカは自らがかつて信じた正義を胸に抱え、常に前を見据えて、正しいものの為に戦い続けている。しかしアイアンマンは、過去の自分がしたことの贖罪、二度と自分、あるいは世界の傲慢による犠牲を出さない為に戦っていたのかもしれないと思う。

 人間はか弱い存在であり、誰もが必ず間違いを犯す。キャップは戦争に参加したことや、今までの戦い、そして裏の歴史を知ってしまったが為にそれを理解していて、それでも止まることは出来ないと鋼の意思を持ち続けている。一度の間違いで止まるよりも、それを踏まえてより多くの善を成すことが自分たちのさだめだと、キャップは糾弾のきっかけとなってしまったスカーレット・ウィッチを諭していた。しかしトニーはそんな彼女を危険視し、ヴィジョンの監視の元軟禁状態に置いていた。危険な能力を持つ超能力者であるとはいえ、彼女はまだ少女に過ぎない。結果的にそれはホークアイことクリント・バートンの離反をも招いてしまい、キャップ派とアイアンマン派の派閥の溝を深めていく。

自らが正しいと信ずるものに従う

 キャプテン・アメリカは最初から何もスタンスを変えていない。それは「自分が正しいと信じるもの、それが正義である」という理念だ。路地裏で不良に絡まれた時*1だって、アメリカの為に命を賭した時だって、自分が信じるアメリカが悪だと気付いた時にもそれは変わらない。今作は親友のバッキーがウインター・ソルジャーとしてテロに加担していた疑いがかけられ、世界的に指名手配されるが、彼の無実を信じて逃亡に手を貸してしまう。事実、物語の中盤でウインター・ソルジャーというヒドラが作り出した強化人間が複数存在していたという事実が発覚し、バッキーが真に無実ということが証明され、キャップの言い分が正しいことが判明する。今作、キャップが1944年の時点でお互いに行為を寄せていたペギー・カーターが天寿を全うするが、思い悩んでいたキャップに、彼女が遺した言葉*2が彼の忘れかけていた理念を思い起こさせてくれた*3。誰もが正しいということを、自分だけが間違っていると思う時、それが信じる価値のあるものならば世界中の誰もを敵に回しても貫き通せ。だからこそキャップは無実の親友を守る為にただ、走り続けた。

スタークの抱える矛盾と疑問

 しかし、中盤までバッキーは明らかにテロリストとして追われる存在であり、直接バッキーから「俺はやっていない」と証言を聞いたキャップ以外、彼の無実を知るものはいない。そんな彼を守る為に付き従うキャップは明らかに、過去の友人の為、つまり私情に流されて危険なテロリストを守っている大バカ者に過ぎない。そんなことを続けるキャップにトニーが賛同出来る訳もなく、挙句捕えられたキャップと協力者のサム・ウィルソンことファルコン、そしてバッキーだったが、何かのきっかけで突如バッキーはかつての自分、洗脳されていたウインター・ソルジャーとしての自分を取り戻してしまい、暴走の挙句再び逃走してしまい、トニーはもう一度キャップ含む一味を捕まえようという決意を新たにする。

 そもそも、トニー自身はもともと民間人であり、ワンマン天才社長として個人プレーが似合う存在で『アベンジャーズ』一作目の時も、自分は軍人ではなく民間人としての協力者だと言い、組織として働くことを良しとはしていなかった。そんな彼が自分たちが引き起こした事件の責任を感じて、自分たちは敢えて組織として監視され、統制されるべきだと言いだしたのは、彼の意識の変遷を感じずには居られなかった。そう、トニー・スタークの言うこと自体はいつだって間違ってはいない。ウルトロンを開発した時だって、SHIELDが崩壊した中で迫りくるテロリストやエイリアンの脅威を守ろうとしたことから始まっているわけだし、今作でキャップと対立する原因だって、譲歩案や和解の方法を彼の方から提示しようとした。トニーはいつだって、自分自身の出来る最大限の方法で平和を考えていた。何も考えていなかったわけではない。ただし、最後まで彼が捨てきれなかったものがある。それは自分自身のエゴイズムで、簡単にいえば他者を根本的に信頼しきれていないことだと思う。自分が作り出したスーツならば、自分が作り出した人工知能ならば、あるいは自分の判断ならばと、他人と譲歩する姿勢は見せるものの、結局は自分の判断が絶対だという考えを捨てきれない辺りが、トニーが根本的に信頼されない原因であり、他者に矛盾していると思われてしまう原因じゃないかと思う。

 今回の場合は多くの命を奪ったテロリストをキャップが庇っているということで、それを仲間だという理由で許すことは絶対に出来なかった。だからこそ、真実を知らないトニーはキャップとの埋まらない溝を抱えたまま、彼と対峙しなければならなくなった。途中でキャップから聞かされた真実を聞き入れもせず、結局は対峙に至ってしまうのは、もはや悲しい誤解の積み重ねでしかない。

結局、誰もが救われぬ被害者である

 今回の作品は、いわゆる「ヴィラン不在」とも考えられる。そもそも、アベンジャーズが国連傘下に入るというだけではただの論争に過ぎない。幾ら堅物の二人が居ると言っても譲歩の方法はいくらでもあったし、最後にはキャップが「本当は署名だってしたかった」という気持ちを吐露している。だがきっかけとなるのは、バッキーがテロの主犯として疑われ、彼を守る為にキャップが飛び出していったことである。そのきっかけを作り、バッキーに冤罪をかけたのがこの作品の黒幕であるヘルムート・ジモ大佐だ。ヒドラ残党が隠し持っていたウインター・ソルジャーの使用方法を盗み出した挙句、バッキーに変装し大規模なテロを仕掛け彼に濡れ衣を着せることで、アベンジャーズの仲間割れを誘った。しかし終盤、ジモは実はソコヴィア出身で、ウルトロン事件の際に愛する家族を失っていた――という過去が明かされる。愛する家族を奪ったアベンジャーズに復讐しようにも、超人集団の彼らに誰が敵うだろうか。誰が彼らを制御するのだろうか。出来るはずがない。だからこそジモはウインター・ソルジャーを利用してアベンジャーズの仲間割れを誘った。超人と相対できるのは、他ならぬ超人だからだ。

 しかし、バッキーへの濡れ衣を知り、心の底から詫びようと事件の根本的な解決を図ろうとしたトニーに対し、ジモは最後の一手を下す。トニー・スタークの両親が殺された1991年の映像、そこには彼の両親がウインター・ソルジャーと化したバッキーに殺された今際の時が映し出されていたのであった。両親を殺された際の孤独、そして幼い頃からキャプテン・アメリカと比較され続けたことにより鬱屈したコンプレックス、しかし彼はいまや大事な仲間ではあるが、その隣には、トニー・スタークの人生を狂わせた張本人であるバッキーがいる。幾ら彼が洗脳されヒドラの手先として自意識の無い状態で殺しをさせられていたとしても、もはやトニーはやり場のない怒りをバッキーにぶつけることしかできなかった。
 
 洗脳され、知らずうちに幾多の人間の命を奪ったことで否応なしに罪を背負わされたバッキー。その彼に両親を殺されたトニー、そしてトニーが作り出したウルトロンにより故郷の家族を奪われたジモ、そして自らが大切にしていたアベンジャーズの絆を引き裂かれたキャップ。悲劇が悲劇を生み、すべての人間が被害者となるこの物語の中で、ただ、唯一の希望があった。

復讐の連鎖を終わらせた黒豹

 ソコヴィア協定の署名式で起きたテロにおいて死亡したワガンダ国王の息子ティ・チャラは、父を殺した犯人であるバッキーを殺そうと、報復の為にブラック・パンサーとなり執拗にバッキーを追い詰め、キャップ達と衝突する。しかし物語の最後に、真犯人がジモであると知ると、自分は無実の人間を怒りに任せて殺そうとしていたのかと自責の念に駆られ、加えてジモの過去を聞くことで、彼もまた一連の事件の被害者である事を知る。父の命を奪った人間に絶対に報復するという憎しみに駆られていたブラックパンサーは、ジモを殺すことをせず、法の裁きに彼の処遇をゆだねることを決意した。まさしく、復讐者が復讐者を生み、さらなる恐怖の連鎖を生む物語に終止符を打ったのがティ・チャラだったのだ。父から受け継いだ平和を愛する精神を体現した彼は、この時まさに、ブラック・パンサーというヒーローとして成り立ったのだと思う。復讐を遂げキャップたちを狙うヴィランではなく、ワガンダの神の名を借りた正義の黒豹として、彼は復讐の連鎖を絶ち切ったのだ。

結局、物語の帰結として

 アベンジャーズは散り散りになり、仲間たちを投獄してしまったトニーの元にはもはや彼の作り出したヴィジョンと、半身不随になったローディのみしか存在しない。しかし、刑務所からかつての仲間たちが脱獄したという知らせと同時に、失踪したスティーブから手紙が来る。もし世界に危機が迫る時は自分たちを呼ぶと良い。その時はいつだって駆けつける――と。思想は違えど、世界を守りたいという気持ち自体はみな同じである。今回の事件で分かたれてしまったアベンジャーズだが、スティーブたちはワガンダにて潜伏し、世界に危機に立ち向かう構えだろう。いつかまた世界に危機が訪れ、世界が彼らを呼ぶ時、スティーブ・ロジャースもといキャプテン・アメリカは再びマスクを被り、こう叫ぶのかもしれない。「Avengers Assemble!(アベンジャーズ集合!)」と。

他にも良かったところとか

 難しいこと考えずに今回は良かった所が沢山ある*4。ゲスト程度だろうなと思っていたスパイダーマンの見せ方*5などは特に良くて、前二シリーズのピーター・パーカーと比較するとかなり若いにも関わらず*6、ウィットの効いた軽口やトリッキーな戦い方など、完全に僕らの知っている親愛なる隣人の戦い方で、安心感すら覚えた。同じくアントマンもまたコメディらしい口調で伸縮能力を生かした戦い方をするのだけど、映画で見た縮小能力だけじゃなく、理論上は出来るとされていた巨大化能力で戦うダイナミックさを披露してくれて大満足。そのアントマンを『帝国の逆襲』*7オマージュで倒すやり方なんかも映画ファンからしてニヤリとさせられる演出であること間違いなしで、その点も凄く良かった。単純に、今まで共通の敵を打ち倒していたアベンジャーズがお互いぶつかり合う夢の展開ということで、原作の謳い文句である「Whose Side Are You On??(きみはどちらに付く?)」ように、どちらの思想に肩入れするか、どちらが勝つかを考えながらファン同士で語り合うことで楽しめる物語であったとも思う。少し上映時間が長いのが難点だったが、上映時間が長くともダレている感じは全くなかったし、むしろ大迫力なシーンだらけでおなかいっぱいな気持ちだ。『ウインター・ソルジャー』に続いてまたしても大傑作を撮ってくれたルッソ兄弟監督に感謝の気持ちをささげたいと共に、のちに控えている『インフィニティ・ウォー』に備えて、今からより楽しみな気持ちを膨らませておきたい。

「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」あのヒーローが参戦!最新USトレーラー
 もちろん僕は前からキャップ派です。シリーズを観る度にキャップが大好きになる。

*1:アイアンマンとの戦いのとき、腕を上げた時のポーズが路地裏でのそれと全く同じなのが熱い。キャップは最初から最後まで何も変わらなっていないんですよ。それがいい。

*2:この言葉は原作では、スティーブ本人が語る言葉だったという。もしかしたら1945年辺りで彼がペギーに語った言葉を生涯抱き続けたペギーが、姪のシャロンに語ったのがこの言葉だったのかもしれない。

*3:この点、やはりシビル・ウォーは『キャプテン・アメリカ3』としての物語だったのだと思う。ペギーが築き上げた平和なアメリカを守り、そして彼女が亡くなった今、1945年当時のスティーブをつなぎとめる唯一の存在である親友バッキーを、彼は二度と失うわけにもいかなかった

*4:個人的にラムロウが大好きだったので、彼がヴィラン化したクロスボーンズが序盤で爆散したのが残念だった。彼には今作でも意地汚くキャップを追って欲しかった。あのスーツ超かっこいいし

*5:ヘッドカメラを付けて撮影した映像をyoutubeに投稿してるなどしてるのが現代に合わせたスパイダーマンらしさなのだなと感心した

*6:メイ伯母さんもピーターに合わせた若さなのだけど凄く綺麗でびっくりした。あんなおばさんが思春期の少年と同じ屋根の下で暮らしてるだなんて、何か間違いが起きないだろうか

*7:「古い映画だけけど知ってる?」というセリフがアベンジャーズの皆さんに対してジェネレーションギャップを感じさせて良かった。ところで、EP1~3に出てくるメイス・ウインドウって、SHIELDの元長官に激似だと思うんだけどその点あの人たちはどう解釈してるんだろうか