402号室の鏡像

あるいはその裏側

『ヱヴァQ』の話をしようと思う

 

アヤナミレイがぐう可愛い。

 

 考察とかは2chでやり尽くされているし、僕個人が語ってもあまり意味のある内容をひねり出せないと思うので省略します(ちょっとは書くかも)。ネタバレがあるので、記事を見ていただける方はそれを了承した上でお願い致します。

 

 

 んな訳で、結局ブルーレイ、DVDが発売するまでに劇場まで四回足を運んでしまった『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の話をしようと思う。

 思い返すと公開初日の深夜から早朝にかけてバルト9で観たのだけど、それから二回目、普通に観に行くまでに情緒不安定だった事を覚えている。何故情緒不安定だからって、そりゃあ、もう観たヒトなら解るはず。寿司頼んだらアメリカザリガニが生きたまま出て来たとか、テニスしに来たのにマルセイユルーレット仕掛けられた位(例えが悪い)ビックリした内容だったから、内容を理解して咀嚼するのに数日間かかった。

 でも嬉しかったんですよ。だって僕の中であれは確実に『エヴァ』だったんですよ。リメイクを忠実にした『序』、エンタメ路線に走ったかと思った『破』をブッ千切って何をしたかと思えば完全に今までやった新劇場版の否定とも言える黙示録的破壊劇ですよ。所見さん完全お断りの庵野ワールドに翻弄されながらも、僕はワクワクしてたんですよ。今まで予想も出来なかった『エヴァ』が観られた事を今でも嬉しく思ってます。それがどんな内容だったとしてもね。

 酷評を否定する気も無いし、前作に比べれば作画の質も劣っていたのも事実で、躍動感あるエヴァンゲリオンの動きも冒頭のみで終了という残念な面もあったものの、ただ新しい『エヴァ』が観られただけで、僕は良かったんだと思います。

 作中に“エヴァの呪縛”という言葉が出て来た。シンジが眠っていた14年もの歳月にも関わらず、マリもアスカも外見が変わらず、年齢だけを重ねた少年少女の外見を保つ――という設定は、確実にアニメ業界、視聴者に対する批判、挑戦であり、延々とエヴァを待ち続け神格化される事に対しての嫌味とも取れる。

 だけど、事実そうだと思う。僕は色々なアニメを見て楽しんでいるが、全体的な面で観て、「エヴァを超えた」という物語に未だ出会えていない。単純な意味での競争をさせてはいけないと思ってはいるものの、あくまで僕個人の評価では、今現在エヴァを超えたアニメは無いと断言してしまえる。多分、それが僕にかかった“エヴァの呪縛”だ。そういった人間に対し、破滅、別離、理不尽を詰め込んだQという物語を突き付ける事で、庵野秀明がかつて旧劇場版で行った「現実へ還れ」というような、視聴者の“突き放し”を行ったのではないかと僕は思う。エヴァを作ってしまった責任、エヴァが及ぼしたアニメ業界への影響、そしてある意味での停滞が、エヴァQでの作風に全て詰め込まれているのだと思った。その点非常に”10年代的”だ。

 「創造主ばかりが神ではない」――冒頭の『巨神兵』で語った言葉も、メタファーとしてQに響いている。破壊と創造を司る神としての存在=破壊は容易でも、再生は易きではないというのが、エヴァQでは図らずも世界の破壊者となってしまったシンジの苦悩と共に描かれている。だが、それでも希望は残っていたのだ。『巨神兵』の後人類が生き残ったように、碇シンジも、アスカ、アヤナミレイと汚染された大地を地平線に向けて歩いていく。かつての赤い海でアスカの首を絞めるシンジではない。彼らは三人で、僅かな希望の残滓を縋り、荒廃した大地を歩いていく。それが、僕にとっての希望であり、ヱヴァQでの全てなのだと思う。あの、『桜流し』が流れるラストを観られただけで、僕は何度でも劇場に足を運べたんですよ。

 あとセカイ系否定とか、東日本大震災の話とかと絡めても話せるけど、それをやるとどうにも長々となってしまうからここで〆ます。どうせまたエヴァ関連は創作界隈のお話に絡めていくと思うので、だらだらと語るよりは小出しにしていこうと思います。少なくとも次のエヴァが出るまで話すネタは事欠きません。掲示板やら友人やらとあーだこーだ言いながら、結局本編に裏切られる。それがエヴァですから。

 

 

 

 「――全ての終わりに、愛があるなら」

 宇多田ヒカル『桜流し』

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