402号室の鏡像

あるいはその裏側

『EX/SEED』一章『痕』

 西織さんという僕と同じくライトノベル作家を志している方と、縁あってリレー小説を執筆することになりました。

 銃と硝煙と血しぶきをこよなく愛する僕とはうって変わって、非常に読みやすくもしっかりキャラを立たせてくる実力者なので、僕も一緒に創作しているうちに刺激を受けている次第であります。

 今回の作品は、学園内に蔓延している新種のドラッグを巡る異能アクション・サスペンス。僕が主人公の基本設定、西織さんがヒロインの基本設定を考え、そうしているうちにストーリーの外殻が出来あがってきました。

 完結はしていませんが有る程度ストックはあるので、これから少しずつ更新していこうと思うのでよろしくお願い致します。/あだむ/と書かれている所から僕が執筆していて/西織/と言う所から西織さんが担当した部分です。文章を俯瞰しただけでもお互いの作風がクッキリと出てきて凄く面白い事になっていますので、是非お楽しみくださいませ。

 

/あだむ/

 

『プロローグ』

 端的に言えば、少年の精神は直視した現実を処理仕切れていなかった。例えば過負荷をかけられたコンピュータのように全身が凍結し、瞬きという本能的行為すら忘れてしまったかのように玄関に立ち竦んでいた。午後六時過ぎ、部活動帰りの夕暮れ時。手に持っていたスポーツバッグは握力が失われると同時に取り落とされるが、少年はその事実にすら気づいていない。全身の五感という五感が消失してしまったような錯覚に酩酊させられながらも、少年は今現在自分が凝視しながら、肌で感じている光景を嘘偽りめいた幻想だと処理した。現実から乖離し過ぎた情報をホワイトアウトした思考で何度も咀嚼しようと試みるも、やはりそれは不可能だった。

 凍結した身体を少しずつ解凍するかのように、少年はスニーカーから足を無理やり外した。右足から左足。靴は爪先を外側に向けて揃えておく。緩慢な動作で玄関に上がると、おぼつかない足取りで居間へと歩きだした。身体という媒体に確たる意思が伴わずとも、長年染み付いた習慣が、少年の足を生活の中心の場へと赴かせていた。居間のドアを開ければ、普段通りの日常が存在し「ただいま」と言えば「おかえり」という言葉が返ってくるはずだった。  

それは呆れ返る程に平凡な家庭のテンプレートだった。庭付き一戸建てのローンの返済が未だ残っているも、母と父はその現実を平然と受け止めて、二人の子供を抱えながらも懸命に働き、尚且つ家庭に笑顔を振りまいていた。少年はその幸せを拒否すること無く平然と享受して、それがさも当然に、永久に継続していくものだと信じていた。

 居間に続くドアは僅かに開いていた。隙間から中を伺えば、そこには暗黒の色が部屋全体に降りかかっている。夕暮れ時とは言え、未だカーテンが閉められるべき時間ではない。少年は細く息を吐きながら神経質にドアを引くと、蝶番が甲高く軋む音が静寂に響いた。

 家族が外出すると言う伝言は預かっていない。そもそもからして玄関は施錠されていなかった。外出する時は言付けを預かる事が当たり前であり、施錠せずに外出することなど有りはしない。少年の中で、あらゆる事実が玄関で直視した光景に現実感を付加していった。自分の見たものは嘘偽りだと信じるも、状況が次々と事実を肯定していく。少年は崩壊しそうな自分の精神を平静に保とうと、呼吸のリズムを整える事で努力していたが、早鐘を打つ心臓の音がそれを拒否している。自分がその事実を信じてしまったら、自分の周囲に構築されていた全ての世界が崩れてしまう。そう思ったからこそ少年は、自分が玄関で直視した現実を嘘だと信じていた。信じずには居られなかった。もし仮に、居間に母親がひとりでも居てくれれば、その事実を否定する何よりの証拠となりえたのだ。テレビドラマや映画でしか見たことの無い光景に――粘膜を刺激する不快な臭気。人生で一度も嗅いだ事の無いはずにも関わらず、その不快感は本能的に少年の恐怖と絶望を掻き立てていた。匂い付きの夢なんてリアルにも程がある。普通夢なら鼻は効かないはずだろうと、少年は硬直した顔の口角を無理やり釣り上げて、形にならない笑顔を作った。無様にも笑い飛ばしてしまえばこの恐怖は薄れていく。そう微かな願望を込めて思ったが、そう簡単に現実から目を背けられる訳がない。この暗闇の向こうに何が存在しているのか。少年は電気のスイッチに軽く右手を這わせ、指の腹に力を込めた。

 暗黒から一転、無機質な白光が少年の前に真実を露わにした。部屋全体を見回した少年が全てを把握した時、平凡だったはずの少年の中で、重要な何かが確かに壊れた。

それは、現実の肯定であり、少年の世界の崩壊を現わしていた。

いつも昼時に韓流ドラマを見る為に座るお気に入りのソファーの傍らでうつ伏せになっている母親が、二度と瞬く事のない眼を見開き、灰色に濁った瞳で虚空を見つめていた。喉笛は抉り取られたように赤黒い傷痕を晒し、顎が動く限界まで開かれた口腔が、その狂気的なまでの苦悶を非情なまで鮮明に現わしていた。気品溢れる模様が母のこだわりだった絨毯には頸動脈から零れ出たであろう大量の血痕が、白い布に絵の具を零したかのように広がっており、既にそれは時間が経過した故に赤黒く不愉快な色に変わっていた。

清潔感を保つ為綺麗に磨き上げられた白い壁には指の痕が手形として幾つも写しだされていた。無念さを表すように血塗れの手で何度も壁を引っ掻くも、迫りくる死の顎の前に為す術は無かったに違いない。目を背けたくなるほど壁に飛び散った血液の飛沫は、一瞬にして母から失血死するほどの量を奪った事を現わしていた。

 そのすぐ横で倒れているのは、学生服姿の姉だった。都内の有名女子大に合格したばかりの姉は、尊大な態度で少年を見下す事もあったが基本的に面倒の良い性格で、少年がそれなりの偏差値が有る高校への入学に成功したのも、彼女が直接家庭教師を承ってくれた事が大きな部分だろう。端麗な容姿を併せ持っていた事で憧れの言葉を同級生から受ける事も少なくは無かった。少年は彼女のそんな性格を尊敬し、男ながらも自分も彼女のような才色兼備を目指せたらと思っていた部分もあった。

 そんな姉が、口に布のようなものを一杯に詰められて苦悶の表情で母と背中合わせに倒れていた。限界まで開かれた瞼から見える血走った眼球は、最期の時まで耐え難い恐怖に晒されていたことが人目で理解出来、更にその衣服は襟元や下着までが乱雑に引き裂かれ、彼女の透き通るような白皙には紫色の痣や擦り傷が複数個所に点在していた。下手をすれば彼女の女性としての最期の尊厳すら奪われているかもしれない――そう想像してしまうと、少年は込み上げる嘔吐感を抑える事が出来ずに、フローリングの床に胃の内容物を全て吐き出した。喉を焼く胃酸の痛みに加え、空気中に充満する死臭と自分の吐瀉物の匂いが混合され、更なる吐き気が喚起され、少年は五臓六腑を吐き出しかねない程に嗚咽していた。

 現実は完膚無きまでに肯定された。人間が備えている五感全てが、信じ難い悪夢が現実であると少年に訴えかけていた。幾ら逃避しても現実は幻想を追いかけてくる。こんなのは悪い夢だ。誰かが冗談でドッキリを仕掛けているんだ――少年は玄関を開けたその瞬間から、現実に背を向けて心の中でこれが明らかな偽物である事を望んでいた。

 廊下の向こう。夕暮れ時の妖しげな日差しが差し込む中、少年が鞄を取り落とした玄関にて。

 くたびれたスーツ姿の父親が、おびただしい量の血溜まりに付していた。

普段、父親はこの時間に帰宅することは滅多にない。生真面目な性格の為、同僚と一緒に残業をこなして帰宅するのは基本的に夜九時か十時くらいが、少年の父にとって普通の生活だった。そんな彼が夕飯時に帰宅しているとなれば、久しぶりに仕事が巧く片付いた時に他ならない。珍しく早く家に帰って家族と夕食を食べられる――そんな彼の浮かれた表情すら目に浮かぶ夕暮れ時に、犯人は玄関から堂々と侵入し、父親の帰宅直後を狙い凶行に手を染めたのだ。

背中に大きな空洞が穿たれ、家族を守るという役目さえも果たせないまま無念に即死したのは、視点を変えれば妻と娘の惨状を知らずに亡くなったと言う事であり、夫であり父親であった彼にとって最期の慈悲とで言えたのだろうか。家族において一番の力を持つ年長者の男性を殺害した以上、犯人を遮るものはもはや何も無かったに違いない。十分な時間と余裕を持って残忍非道に母と姉が殺害された事は、まだ思考回路が未成熟な少年にも推測は出来た。

 ――猟奇殺人。一体誰が、何の為に。

 吐き出すものが無くなる程に嘔吐し、大粒の涙滴と鼻水で真っ赤に腫らした顔で嗚咽した後、突然潮が引くような冷徹さが少年に宿った。焼けるように熱い喉で何度が咳き込んで唾を吐くと、理不尽な怒りが炎となって少年の深層にて憎悪を焦がし始めた。

 何故自分の家族が死なねばならなかったのか。どうして自分だけのうのうと生き残っているのか。何故自分は家族を護ってやれなかったのか。自分の家族を犠牲にして生きる価値など存在するのか。少年の心にあらゆる後悔と無力感が生まれ、衝動的に台所にあった包丁を手に取り、自分の首筋に押し当て頸動脈を切断しようとした。逆手に持った包丁で頸動脈ごと喉仏を押し切れば自分も死ねるだろうか。自分も猟奇殺人の被害者として仲間入り出来るだろうか。

 ――だが、この瞬間、少年を焦がす炎の色が変わった。

 包丁の白刃が、自分の憎悪溢れる眼光を反射していた。自分の眼から放たれる憎悪の力で自殺することは容易い。だが、この殺意を犯人に向ける事が今出来る正しい事だろうと、少年は見つめ返す自分の瞳に問うた。手にした刃は家族を奪った悪魔に突き立てるべきで、自分自身を殺す為の者ではない。元よりこの瞬間、既に自分は死んでいるも同然だった。自分がたまたま部活動で帰宅が遅かった故に犯人の凶手から逃れられたのに過ぎない。タイミング悪く帰宅した父親と、在宅中だった母と姉。その中に存在しなかったもう一人の家族――犯人が自分を逃した事を後悔させてやると、誓いの意味を込めて包丁を床に突き立てた。

 その瞳には、蒼き憎悪の炎が宿されていた。

 

 

 

 後に「千代田区一家三人殺人事件」と名付けられたこの事件は、一家の中で唯一の生存者である神城亜哉の証言と捜査員の懸命な捜査にも虚しく、犯人の逮捕には至っていない。猟奇性の高い残虐な犯行と、容疑者のものと思われる体液や毛髪が多数殺人現場に遺留品として多く残されている事から個人を特定出来る可能性は非常に高いものの、結果的に犯人逮捕という結果に結び付いていない希有な例として、世間から非常に注目を受け、マスコミも多くテレビや雑誌で取り上げられる事になった。

 

――それから、七年の月日が経つ。

 

 

 一章『痕(きずあと)』

 東京都新宿区に位置する東京国際総合教育学院は、つい最近設立された学園なだけあって、近代的な設備と各所に意匠を凝らしたアーティスティックな建築美で世間に名を馳せていた。グローバリズムを掲げる新機軸の教育手法と、数々の国際企業とのコネクションを全面に掲げた宣伝により、学院の歴史が始まって未だ数年にも関わらず、入学を希望する学生は後を絶たない。ガラス張りの教室は学生にオープンな環境を提供しつつも近未来的な教育姿勢を提示している。おまけに最新式のセキュリティシステムを配備し生徒の安全にまで精緻な気配りが為されているとあれば、高額な学費を支払って尚、保護者側は安心して子供を学園に任せられる。子供と大人、両方の支持を得て運営されているのが東京国際総合教育学院と言う場所だった。

そんな学園の高等部に存在する職員室にて、青年は一人、理知的な女性教員に何やら重要な説明事項を説かれていた。

「――と、言うわけで、敷島先生からの引き継ぎ要項は以上。基本的な担任業はわたしがサポートするから、非常勤のきみは副担任としてやれることをやってくれればいい。まぁ、気張らずにやっていこう。敷島先生にとっては不幸だけど、きみとしては新しい職場が見つかったんだから、教員生活初めの一歩として経験が積めると思えば千載一遇のチャンスだよ」

 肩まで伸ばした髪の毛が健康的な頬の輪郭をなぞり、利発そうでありながら、その中性的な声は、はっきりと職員室の中に通っていた。そんな彼女――東雲瑞穂に色々と解説をされていたのは、さもスーツに着られているような頼りなさを身に湛えた青年だった。

「……はい。ありがとうございます。東雲先生。色々はじめてなので全然慣れてないとは思いますが、一生懸命頑張ろうと思います」

 雰囲気からしてみれば、瑞穂よりも随分と落ち着いた――と言うより気弱な印象で、声に覇気や自信のひとつも宿っていない。瑞穂が同僚から聴かされた情報によれば、大学卒業以降、初めての教員生活だと言う事で、かつての自分を思い出せば、初陣に緊張しているのも決して解らない話ではなかった。だが、端正に整った鼻立ちや、時折感じる射抜くような眼光は、確かに年齢相応のものを思わせる振る舞いだった。

 青年の前任であった敷島大助は、原因不明の体調不良により休職状態にあった。今学期初め辺りから突如教員業務に支障をきたし始め、生徒からしてみても一目見れば解る程に追い詰められているのが顔色に出ていたともいう。体調不良によるストレスのせいなのか、普段は温厚な性格であるにも関わらず生徒を理不尽な理由で怒鳴りつけたりしていたという事から、精神的にもダメージを受けていた事が簡単に想像できる。精神が先か身体が先か、それは本人にも解らない話ではあるが、ともかくその代役として、非常勤講師が招聘されたという訳だった。

「もう、シャキっとする。こんなんじゃ生徒にナメられてもしょうがないよ? 中学生とかならまだしも相手は高校生。非常勤だからって容赦しないんだから、あの子たちは。私立高校とはいえ、伊達に偏差値が高いわけじゃないよ。なかなかに知恵が回るの」

「……すみません」

「はい。わかったなら背筋をのばす。折角かわいい顔しているんだから、顔見せないと勿体無いぞ。まぁ、敷島先生よりかは生徒たちとも年が近いし、すぐに仲良くなれると思うけど」

 瑞穂はそう言って微笑すると、職員室の引き戸を開けた。近代化された校舎の引き戸は軋み一つ上げずに滑らかに開き、清潔感溢れる廊下へと二人は踏み出した。生徒による掃除は毎日習慣的に行われているが、リノリウム張りの艶やかな床の輝きを保つには、それ相応の労力が必要になる。だから学院自体がプロの清掃業者と契約し、生徒が立ち入らない時間帯や長期休暇の際には徹底的な清掃作業を行っているという事だった。

高らかな靴音を優雅に響かせて到着した教室のドアをゆっくりと開けると、その音を聞き、外に漏れる程の騒音でざわついていた少年少女達が瞬間的に沈黙し、着席した。年相応の振る舞いとはいえ、そこは流石に有名私立高校という事で、基本的な常識は身につけているのだと思うと、瑞穂の隣で緊張に身体を固くしていた青年も思わず舌を巻いているようだった。

「おはようみんな。出席を取る前に、今日は皆さんに紹介する人がいます。静かに聞いてあげてね」

 と、瑞穂は自分より頭一つほど背が高い青年に話のバトンを渡した。瑞穂からしてみれば、深呼吸をして意気込んでいるように見える青年の姿が些か不安ではあったが、彼が持つ清廉でやわらかな物腰は教員生活にとって決してマイナスにはならないだろうと確信していた。

「――えっと、今日からみなさんと一緒に勉強させていただく事になった、神城亜哉と言います。非常勤講師として敷島先生の後任を務める事になりました。教員歴は浅いので色々と不勉強なところはあると思いますが、まずは一生懸命頑張りたいと思います」

 神城亜哉――と、黒板に綺麗な字で書きながら名乗った青年は一気に自己紹介の言葉を言いきると、緊張の糸が解けたかのように安堵の息を漏らした。生徒から乾いた拍手が帰ってくるも、それが無機質なものなのか歓迎の色を含んでいるのかどうかは解らなかった。

「神城先生は、しばらく副担任として私のサポートをしていただくことになります。慣れてきたら担任として一人でやっていただくことになるけど、何かあったら皆も助けてあげてね」

 はーい、という気の抜けた返事がばらばらに帰ってくる所はまさしく高校生らしいと言ったところ。最初の自己紹介の結果自体は上々と言ったところか。瑞穂の隣で亜哉はほっと溜息を漏らすと、自然と笑顔が彼の顔に浮かび出るのが解った。どうやら本当に緊張していたようだと、瑞穂は初めて教壇に立った時の事を思い出して少しむず痒くなった。

「あ、そうだ、最初の授業も私だから、出来ればプリントとか取ってきてくれるとありがたいかな。全部この間教えたところに置いてあるから、よろしくね」

先輩教員である瑞穂の言い付けに対し、素直に「はい」と頷いた神城亜哉は若々しい小走りで教室の外へと駆け出していった。しばらくは、元々他のクラスの担任をしていた瑞穂であったが、彼が担任として慣れるまではこうして兼任のような形で監督してやる必要があるだろう。

「……若いってうらやましいなぁ」

 そう影ながら呟いた瑞穂は、少しばかりの羨望を込めた視線を後輩の初々しい背中に送っていた。生徒から溢れ出る水を弾くような若々しさは日々痛感しているも、学生とはまた違う新任の危なっかしい感じもそれはそれで、また懐かしいものを思わせる。大学を卒業して新卒で教員に着任してから早数年。今度は自分が先輩になって教える版だ。過ぎ去って行った時間こそは戻らないものの、自分も後少しで若者とは確実にかけ離れた年齢になってしまう事に頭を痛くしながらも、これからの生活に僅かばかりは楽しみが増えたと思える朝でもあった。

 

 

 

「――慣れて、ないな」

 教室から東雲瑞穂の言い付けで教材を取りに行った神城亜哉は、誰も居ない教材準備室の中で虚空を見上げながら、他者からしてみれば弱音にも聞こえる言葉を吐いた。光が侵入してこない、清潔感溢れる校舎の全体像からしてみれば異質にも思える空間が、今の亜哉にとっては安らかな空間に思えた。初めての場所、初めての人間、初めての体験。全ての要因がストレスとなって降りかかってくる場所で、一体自分は何をしているのだろうか――と錯覚してしまう。

 何せ、自分は嘘をついている。

 スーツの上から左胸を掌で触ると、そこには確かな存在感があった。重量を伴う異質な存在感――背広の中を少し覗くと、ショルダーホルスターにて吊るされた、黒光りする自動拳銃が日常の裏の非日常を象徴するような確かさで収まっていた。

 ベレッタPX4サブコンパクト。イタリアが誇る老舗銃器メーカーであるベレッタ社が作り出した新世代式ポリマーフレームオート拳銃。九ミリ口径にて装弾数は十発プラス一発。懐に収められるコンシールド・キャリー性能と数々の曲線で成立するフォルムを有しながらも、ホルスターを吊るす左肩には確かな重厚感が伝わってくる。それを確かめると、自分が俗世からかけ離れた存在であることを確信すると共に、不釣り合いな安心感すら覚えてしまう。

 ――それでも、行かなければいけない。

スーツの皺を両手で元に戻すと、言いつけられた教材を手に持って教材準備室の外へ出た。

自分は他者の命を受けて偽りの立場に身をやつしている。関わっている全ての人間の善意を踏み躙って尚果たさなければいけない任があるからこそ、自分はここにいるのだ。その誓いを忘れてはならない。他の教員とは違って正規な手段で教員免許すら取得はしておらず、教員試験を突破した事実ですらそこには超法規的措置が取られている。それはこの東京国際総合教育学院と言う、外面だけは不自然にも小奇麗な箱庭の暗部を内側から暴く為だ。楽園や理想郷をモチーフに建造された学院でありながらもその裏側で蠢いている悪夢の存在は、未だ白昼に晒されてはいない。廊下を歩きながら交錯する生徒や教員の中に、悪の根源が存在すると思うと、亜哉は心の深層に微かな揺らめきが発生するのを覚えた。

かつて自分が奪われたもの。喪失して闇の底から永遠に取り戻せない大事なものを思うと、亜哉の温厚な表情に無意識の歪みが生じてくる。だが、そのような心の揺らめきは任務に不必要なものだ。かつて自分がこの立場に至るまでに受けた地獄のような訓練で、彼はそういった感情の雑念を破棄する術を覚えていたし、神城亜哉と言う人間はそれを確かに弁えてもいた。しかし、感情に湧き上がる憎悪の炎だけは絶やしてはならない。亜哉の過去に起因する巨悪への憎悪。それが今、彼が学院に教員として潜入している第一の動機だった。

「とは言え、まずは教員として巧くやらなきゃいけない」

 自分に言い聞かせるように亜哉は一人ごちる。教員か生徒か、それとも用務員か事務員か。その巨悪の正体は未だ「この学び舎に存在している」というレベルでしか掴めてはいないが、そもそもまず教員として有る程度の立場を身につけなくてはいけないのが亜哉にとっては最初のハードルだった。学力的なレベルで言えば下手な教員より高い水準の学力を有している亜哉ではあったが、他人に教えるとなるとそれはまた別の話だ。根本的な面から下地を固めていかなければいけないと、亜哉は少しばかり顔をしかめた。

 ――そう言えば、さっき教室で見まわした生徒の顔に、一人だけ見知った顔の女子がいたような気もしたが、そのことを気に留めるには、現在の亜哉に些か余裕が足りなかった。

 

 

 /西織/

 

 

 神城亜哉の所属する組織――国家保安局0課は、日本国内で起きる超常犯罪に対する対策部署として存在している。国家を揺るがすテロ組織から、民間の異能犯罪まで、多岐にわたる案件を秘密裏に処理している。

 0課の部長である細川雪路は、この教育学院のことをこう評した。

「教育機関の名を借りた実験場。そんな風に、あたしは思うね」

 年齢不詳の細川は、整った顔立ちを怪しくゆがめながら皮肉気に笑った。右手には火のついたタバコを持ち、左腕は頬杖をついている。事態を楽しむかのようなその余裕は、彼女なりの気遣いなのだろう。

 タバコの火を揺らしながら、彼女は亜哉に渡した報告書を指し示す。

「この学院に、『飴玉』を流してるブローカーがいるって情報があってね。教育学院の理事会を通じて君を送り出すことには成功した、けれども」

「内部情報はほとんどわからない、ってことですね」

 手元にある情報は、外観や生徒数といった、パンフレットレベルでわかることくらいしか書かれていない。役に立つのはせいぜい教師のプロフィール程度だろう。

 情報不足のうえでの潜入捜査はこれまでも何度かあったが、ここまで不明瞭なものは初めてだ。何をマークすればいいのか、そもそも何に気を付ければいいのかもわからない。

 戸惑っている亜哉に、細川がくすくすと笑い声を向ける。

「なぁに、坊やがやることは簡単さ」

 にたり、とどこかいたずらっぽく笑って、彼女はいった 。

「若くてかっこいい、愉快な先生として人気になって、生徒と仲良くなればいい。そんでもって、その一人でも誘惑して手籠めにでもすりゃ、情報なんて湯水のように入ってくるさ」

「手籠めって。仮にも聖職者がそういうことをするのは……」

「はぁ。君はお堅いねぇ」

 本気で困った表情を見せた亜哉を見て、細川はため息をつく。

「これから学生の真っ只中に潜り込むっていうのに、この調子で大丈夫かね。もうちょっと融通を利かせないと、子供だましにもなりはしないよ。高校生なんて、人のあら捜ししているような連中ばかりなんだから、逆に足元救われかねないね」

 やれやれ、と肩をすくめて見せる細川を前に、亜哉はばつが悪そうに顔を伏せる。

 だが、気弱ながらも顔を上げた彼は、一つの疑問を呈する。

「そもそも、なんで僕なんです? こういった潜入捜査っていうんなら、もっと適任がいるでしょうに」

「そらあたしだって人選ミスかなって思うけどね。学生と交流を持てるぎりぎりの年齢で、なおかつ戦闘能力が高いっていったら、坊やくらいしかいなかったんだよ」

「……戦闘、ですか」

「そ。はっきり言って危険だよ。この任務」

 そう言い切る細川に、亜哉は身を固くする。

「現在問題になってる飴玉……『ブルメーロ』。子供たちの間じゃ『ドロップ』なんて呼ばれてるけど、そいつの流通具合がちょっとばかりまずい。こないだ見つかったものなんて、濃度50パーセントっていう高濃度でね。もちろん利用者は廃人同然。被害は甚大さ」

「うたい文句のサプリメントって枠をはるかに超えてますね」

 ドロップとは、数年前から流通している麻薬の名称である。

 この麻薬は、一見するとサプリメントのようなもので、低濃度のものはちょっとした精神の鎮静作用や、活性作用を持つ程度である。効果としては、短期的な思考力の向上、身体的なリズムの調整といったもので、麻薬というよりは、スマートドラックと言った方が正しいが、濃度によってはドーピング一歩手前の効果を持つ代物である。

 当初こそ、気軽なサプリメントという調子で流行ったのだが、これが中毒性と依存性を持つということが判明して以来、全国的に警戒が行われるようになった。そして現在、高濃度のものは明確に取り締まりを行われている。

 それを流通させているブローカーが、潜入先の学院にいるということなのだそうだ。

「最悪、学校が戦場になるかもしれないですね」

「そうならないように立ち回ってほしいものだけどね。君の振る舞いに多くは望まないけれども、できれば生徒から死者を出すのだけは避けてほしいものだ」

 それは言われずともわかっていた。未成年が巻き込まれること自体、隠しづらい要素である上に、学校という公的機関で事件でも起きようものなら、隠蔽の難易度は跳ね上がる。

「まあ、何だい」

 まとめるように、細川は言った。

「女子高生は可愛いよ?」

「……それがどうしました?」

「成人しちゃうと、女子高生と関わる機会なんて、めっきり減っちゃう」

「……だから何なんです?」

「食べちゃえ」

「食べません!」

「あ、でも」

 そこまでの悪ふざけた空気は鳴りを潜め、途端に真面目腐った顔をする上司。

 その様子に言い知れないものを感じた亜哉は、身を固めながら直立して上司の言葉を待つ。

 困ったように眉をひそめた細川は、苦々しそうに口を開いた。

「捜査のためって言っても、手を出したことが公になったらブタ箱行きは間違いないね。その時は庇えないから、よろしく」

「ちょっとは真面目になれないんですか!」

 国際的犯罪を秘密裏に解決する組織のはずなのに、こんな会話が繰り広げられていることに、亜哉は頭が痛くなった。

 最近、上司の考えることがわかりません。

 

 

 

 亜哉が頼まれた教材を持って教室に戻れたのは、授業が開始して十分程度経ってからだった。

 何せここは天下の東京国際総合教育学院。小学校から大学まで全てが収まっているマンモス学院である。広大な敷地と巨大な校舎は、それだけで一つの迷路のようなものだ――などと言い訳が使えるのも、新任教師だからである。その利点を、亜哉は無駄にすることなく利用することにした。

 ありていに言うならば、わざと遠回りをして、校内を観察して回ったのだ。

 もっとも、見て回れるのは高等部がせいぜいである。しかし、それでも収穫はあった。

 この学院は、過剰なほどに管理されている。

(目に見えるだけでも、監視カメラが角ごとに置かれている。隠されているものまで含めると、どれくらいになるだろう)

 新機軸のセキュリティシステム、といわれるだけあって、その管理の仕方は神経質なほどに徹底されているようだ。しかし、ここまで来ると教育機関というよりは、何かの研究施設じみてすらいる。細川の言っていた評価はあながち間違いではないようだ。

 事前情報として、ここが普通の学院でないことは聞いていたが、さわりでこれなのだから、どうやら考えを改める必要があるらしい。

 そんな風に考えながら、亜哉は教室に戻った。

 遅れたことを謝罪しながら、教材を生徒に対して配布していく。おどおどとした様子でプリントを配る様は、不慣れな様子が伝わってくるようで、教室全体が新任教師を見守る生暖かい空気に包まれていた。

 それは、プリントを配り終えるところで起きた。

 最後列の右端。

 女子生徒の一人が、差し出したプリントを受け取ろうともせずに、じっと亜哉の顔を正面から見つめてきたのだ。

「え、っと」

 目鼻立ちのはっきりとした、気品のある外見をした少女だった。

 まだ大人になり切れない、かわいらしさの残る顔立ちで、しかし瞳は厳しく吊り上がっている。意志の強そうな瞳は、まるで何かを見極めるかのようだった。

 自他ともに認める対人能力の低さを誇る亜哉は、そんな風に見つめられて、ドギマギしながらどうしていいか戸惑う。

 ゆっくりと、少女の薄紅色のくちびるが開かれる。

「神城……先生?」

「な、何かな」

「神城、亜哉、先生」

 一つ一つを区切るように、彼女は亜哉の名前を呼ぶ。

 不明瞭なものを確かめるような言葉の紡ぎ方。次第に彼女の中で形になってきたのか、言葉が確信を帯び始める。

「年齢はもしかして、二十三歳?」

「そ、そうだけど」

「出身は、千代田区?」

「なん、で」

「でも、七年前に引っ越した」

「…………ッ」

 全身に緊張が走る。

 身体はこわばりながらも、すぐにでも行動がとれるように調律される。こんな昼間の学院で、しかも女子生徒相手に、これほど警戒心を抱くことになるとは思わなかった。

 ……なぜ、知ってる?

 よみがえるのは、せり上がる恐怖と憎悪。血の跡が残った白い壁。苦悶の表情から読み取れる惨劇の恐怖。醜悪を隠すかのように覆う暗黒の幕と、隠しきれない腐臭の生々しさ。こみ上げる酸の味とくぐもった呻き。嵐のごとき悪夢は一夜にしてすべてを奪っていった。脳裏の映像が離れない。耳鳴りが痛い。肌はピリピリと殺気立ち、嗅覚は腐臭を感じ、口の中は酸の味で満たされる。どくり、と血が騒ぎ、唾を飲み込む音が必要以上に大きく聞こえる。

 誰も、知らないはずだ。

 事件は報道された。しかしそれは超法規的圧力によりすぐに鎮静化した。その後の亜哉の動向を知る人間はごくわずかだ。それを、なぜ。

 じっとりと手のひらが汗でぬれる。左胸に下げてあるベレッタの重さを必要以上に意識する。早まるな、と自身を律するよう言い聞かせる。ここで問題を起こせば、すべてが台無しになる。自分の役目を思い出せ。

 ああ、それでも幻視が止まらない。耳鳴りが止まらないのだ。

 一日とて忘れたことのない惨劇の夜。思い出すたびに、自分は自分でなくなる――

 

「どうかしましたか? 神城先生」

 

 深淵に堕ちかけた意識は、先輩教師の声によって引き上げられた。

 狭まっていた視界が急に開けたように感じ、めまいを覚える。それを抑えながら、「いえ。なんでもありません」と言って、そのまま教室の後ろに移動する。

「そう。では、授業を再開します。みんな、プリントはいきわたってる?」

 瑞穂の言葉に、何事もなかったかのように授業が再開される。この授業は見学させてもらえることになっているので、亜哉は後ろの方で椅子を用意して座ってメモ帳を開いた。しかし、授業に集中できない。

 手に平を濡らした汗は、気持ちの悪い感触となって残っている。極度の緊張から抜けた反動か、全身をけだるさが襲ってきている。

 疲れた目で、亜哉は問題の女子生徒を盗み見る。先ほどの出来事などなかったかのように、少女は授業に集中していた。いったい彼女は何者なのか。それを考えるだけでも、またさっきの緊張がよみがえってくる。心臓に悪かった。

 

 

 

 東京国際教育学院は、数にして二十三の飲食店と提携しており、四十の学食が学院内に存在する。その一つ一つが、一般的な学食に比べて、メニュー、味ともに充実しており、それが信じられないような低価格で提供される。そういった点から、学院内のみならず、外部からも食事のための来校者がいるほどだ。

 お昼休み。

 午前の授業を終えた高等部の生徒たちは、三々五々昼食に向かう。弁当組以外は、全員が施設内の学食へと向かう。

 そんな中、弁当も出さずに、かといって移動しようともしない女子生徒が一人いた。

 カラスの濡れ羽のような長い黒髪は美しく、陶磁のような白い肌はそれを際立たせている。物静かなその様子は、どこか触れ難い儚さを覚える。

 彼女の名前は、白縫姫乃。

 彼女は、腕組みをして静かに瞼を下していた。一見眠っているようにも見えるが、その口元がわずかに動いているのを見ると、何か考え事をしているようである。かすかに聞こえるのはつぶやきのような言葉で、短く紡がれる単語は意味をなさず、不気味ですらある。

「お姫ちゃん、お昼だよー」

 そんな少女に、クラスメイトの一人が声をかけた。活発そうな少女――真鍋陽菜は、目を閉じて考え事をしている姫乃に声をかける。

 その賑やかな声に、閉じていた瞼をそっと開く。大きな瞳は半開きとなって、その寝ぼけたような視線をクラスメイトに向ける。かろうじて認識したのか、姫乃は小さく

「ん」

 とだけ、答えた。

 その様子に、ほかのクラスメイトは「またか」と苦笑する。どうやらいつものことらしく、手慣れたように、彼女たちは姫乃に手を差し出す。反射のように手を握った姫乃を誘導しながら、陽菜たちは学食への道を歩き始める。

 五人の女子グループは、かしましく学食で食事をとる。その間も、姫乃は時折ぶつぶつとつぶやきながら、しかし手は無意識のまま食事を口に運ぶ。何とも器用なその様子にも、クラスメイト達はいつものことといった風な対応である。

 やがて、昼食も終わりに差し掛かり、皆が談話に興じ始めたころに。

「はっきりと思い出した。やっぱり『あーちゃん』だ」

 唐突に、不機嫌を隠そうともせず姫乃は吐き捨てた。

「あまりに古い記憶だから勘違いかとも思ったが、間違いない。面影がある。まったく、気に食わない」

「おっと、お姫ちゃんがお目覚めだよ」

 ようやく目を開いた姫乃を見て、皆が口々に声をかけてくる。

「考え事は終わりましたか? お姫様」

「しっかし、器用だね。目を閉じたままオムライス食べてるんだもん。いつ見てもすごいわ」

「今日は随分と長い瞑想でしたねーヒメヒメ」

「ちょっと気になることがあったんだ。大丈夫、解決した」

 尊大な口調は、しかし乱暴には聞こえず、むしろ気品すらも感じさせる雰囲気がある。澄ました表情は堂に入っており、少女の気の強さを表している。

「話、中断させてしまってすまない。それで、何の話をしていたのだ?」

「新任のセンセーの話だよ、お姫ちゃん」

 姫乃が考え事をしている間の話題を、陽菜が説明してくれる。

 それは、今日赴任してきた新任教師の話題だった。神城亜哉という名の、どこか頼りなさを感じる若い教師。歳も24歳と若く、高校二年生である彼女たちと割かし近いこともあって、今日一日のトップニュースとなっていた。

「神城センセーって、なんか頼りないけど、そこがちょっと可愛いよね」

「えー。なんかおどおどしてて情けないじゃん。あたしは好みじゃないな」

「でもでも、よく見るとけっこーかっこよかったよ。イケメンは見てるだけでなごむわー」

 若い教師の話題を楽しむクラスメイトを、姫乃はほほえましく思いながら見る。しかし、その名に少しばかり苦いものを感じて、舌打ちをかみ殺した。

 そんな姫乃の様子に気づいてか、陽菜が話を振ってくる。

「ねえ、お姫ちゃんはどう思う? 亜哉ちゃん先生のこと」

 不意に振られた話題に、姫乃は「ふん」と鼻を鳴らして言う。

「碌な男ではないだろう。はっきり言って、好印象とは言えないな」

「あらら。これまた珍しく辛口だね」

「そうだな。少し言葉が足りなかったな」

 感情に任せて言葉を発してしまったことを悔やみながら、姫乃は言葉を選びながら、新任教師に対する印象を表現する。

「あの教師のことを、頼りない、という風に陽菜は言ったな。私が見るに、あれは自信のなさではなく、何かにおびえてのものだ。自信のなさは経験を積めば克服できるが、臆病さはそうそう克服できるものではない」

 そう。何におびえているのかはわからないが、彼はしきりに何かを警戒している。そして、見えない何かから、逃げようともがいている。

 などと――いうことをいちいち説明しても詮方ないことだろう。姫乃は、それ以上余計なことを言わずに、苦笑を浮かべながら言った。

「まあ、推測交じりの個人的な意見だ。当たっているかもわからん。聞き流せ」

「はぁ、やっぱりお姫ちゃんは見るところが違うねぇ」

 感嘆の声をあげて目を丸くする陽菜。

 他の三人は、「お姫らしいわ」と、肩を竦めた。

 新任教師の神城亜哉については、女子生徒の間では比較的受け入れられているようだった。中性的な雰囲気が良い風に取られたようだ。

 高校生ともなれば、社会的な建前を扱うことのできる年齢だが、だからこそ大人の前では本心を出すことは中々ない。彼女たちは、嫌いな大人に対してはとことん残酷になれるのだ。そんな彼女たちを相手に、初日に好印象を持たせたということはある意味偉業と言えるだろう。

 昼食の時間も終わりに差し掛かっていた。

 サービスで出てくる食後のコーヒーを飲みながら歓談している女子グループも、そろそろ席を立とうとしていた。

 陽菜が胸ポケットから錠剤を取り出して、口に含んだ。

「なんだ? 風邪か?」

「ううん。違うよー」

 ひらひらと手を振りながら、陽菜は否定する。彼女は錠剤を、まるで飴玉でも舐めるかのように口の中で転がしていた。

「次の授業、数学だからね。集中するための、頭のガソリン補給だよ」

 それを見ながら、姫乃は眉をひそめた。

「……またそれか。薬に頼るのも、ほどほどにするんだぞ」

「『ドロップ』は薬じゃないよ。集中する効果があるだけの、ただの栄養剤だって」

 錠剤は口の中で自然と溶け、ゆっくりと身体に吸収される。彼女が摂取したのは、思考力を高めるタイプβと呼ばれるもので、女子高生の間で人気の種類でもある。

「栄養剤のように可愛い物ならいいがな」

 サプリメントのようなものをあまり好ましく思わない姫乃は、苦々しそうに言う。友人の手前、大きな声で否定はしないが、あまりに周囲に広まっている現状は、はっきり言って不自然であると思っていた。

 集中力や身体機能の補助を行う医薬部外品をスマートドラッグというが、あくまでそれらはリラックス効果を与える程度のものである。しかし、目の前にある『ドロップ』は、効果を見る限り、あまりにも『効きすぎる』きらいがある。

「んー」

 胸に浮かんだかすかな不穏をごまかすように、姫乃は唸る。

 それよりも、彼女には優先するべき面倒事があるのも事実である。すぐにでも動きたい気持ちはあるものの、記憶にある彼と、現在の彼の齟齬が、姫乃の意思を踏みとどまらせていた。五年もの間ずっと彼女に苦々しい思いを味あわせてきた存在。この東京国際総合教育学院に入学することでようやく払拭できたはずなのに、ここでもまた目の前にちらつくのか。

 古い記憶も、思い出してしまえば鮮明だ。かつて憧れ、そして追いかけ、いつの間にか敵視することになっていた絶対的な思い出。それが特別であるからこそ、現在の『彼』のことが、気に食わない。

「んん」

 苦いものを噛み潰すように唸る。

 予鈴の音が聞こえても、苦々しさは薄まらなかった。

 

 

 

 神城亜哉が赴任してきてから、一週間が経った。

 瞬く間に過ぎた一週間、大小の失敗を繰り返しながら、新任教師は必死で業務に食らいついていた。その一生懸命さを皆が暖かく受け入れ、彼も次第に教師という仕事に慣れていった。

 ――と、いうように、周りには見えていたことだろう。

 不慣れな業務に振り回されたという点では、確かに正しい。亜哉はお世辞にも器用とは言えず、その失敗の多さには、教育係である東雲瑞穂は何度も頭を抱えたものである。彼女いわく、『天災レベルのドジ』である。終いには失敗するタイミングを予め予測して、「こんな事もあろうかと」と言いながらフォローをして来たこともあるくらいである。その時に瑞穂が浮かべた得意顔は中々のものだった。

 だからといって、彼が教師の仕事のみに必死で、本来の業務を忘れていたわけではない。

 この一週間、とにかく亜哉がやったことは、情報収集だった。

 演技ではない、天然物の気弱な若い教師というキャラクターは、自然体であるがゆえに生徒たちに受け入れられた。特に女子生徒からは、からかい半分にちょっかいをかけられることが多く、そうしたチャンスを逃さずに、亜哉はしっかりと女子生徒たちから話を聞き出していた。

「ドロップ? うん、あたしもとってるよ。あれ食べると、すっごい勉強捗るんだ」

「運動の時も調子良くなるよね! 私こないだ、200メートルの自己ベスト出しちゃった」

「前にひどい風邪引いた時も、一粒食べるだけで次の日には元気になってたの。すごいでしょ」

 口々に出されるドロップによる体験談からわかるのは、いかに生徒の間でドロップが普及しているかという事実だった。

 一体どこで買っているのかというと、露店のような形で不定期に売りに来るらしい。学校に売りに来ることもあれば、街中で見ることもあり、見かけるたびに購入しているのだという。

 ドロップ売りの露店。ブローカーの存在が、見え隠れする。

 奇妙なのは、生徒たちからはその露店の目撃証言を聞き出せたのだが、他の教師などからは、一切そういった目撃証言が出てこない点だった。

 学校内でそんな怪しげな店があれば、教師の間で問題にならないはずがない。それがないということは、ドロップのブローカーは、本当に生徒たちの前にしか現れない、オカルトじみた存在であるということである。

 それ以外でも、気になる話を聞いた。

「んー、最近起きたおかしなこと? あ、そういえば、噂なんだけどね。敷島先生が休んでるのって、本当は体調不良じゃなくって、行方不明なんだって」

 噂の真偽は確かではない。亜哉の前任者である敷島大輔は、現在体調不良による休職中という扱いになっており、それ以上の情報がないのだ。

 気になって瑞穂に訪ねても見たが、彼女も詳しいことは知らないそうだ。それどころか、誰一人として敷島の体調不良の原因を知らなかった。休職しているという事実だけが不自然に存在しており、なんだか不気味だった。

 一週間という時間を考えれば、捜査の進みは遅いといえる。実際のところ、何もわかっていないに等しいのだ。手探りのような感覚は尽きることなく、少しでも手がかりがありそうならば徹底的に洗い出したくなるくらいだった。しかし、そうも行かないのがこの学院である。校内中に設置されている監視カメラは、亜哉が不自然な行動を取ればそれを証拠として収めることだろう。どこに敵がいるかわからない以上、あくまで自然にふるまい続けることが、今の亜哉に求められることだった。

「はぁ」

 疲れる。

 弱音を履きたくなる気持ちをぐっと堪える。弱みもできるだけ見せたくない。頼りないという印象は相手に油断を抱かせるのに有効だが、弱音は自身に隙を作る。そのことを訓練時代にいやというほど味わってきた亜哉は、疲弊した時にこそ自然と気を引き締める。

 必要以上に疲弊している理由は、常に視線を感じるからだった。

 監視カメラのことではない。どこからかは分からないが、自分のことを見ている『誰か』を、亜哉はずっと意識していた。

 はじめは気のせいかとも思ったが、それも一週間と続けば気のせいでは済ませられない。厄介なのが、亜哉が気づいたような仕草を見せると、すぐにその視線がなくなることだった。そして、気を抜いた時にはまた自分を見つめる視線を感じるのである。

 だからこそ、その日も、すぐにその視線は消えるのだと思った。

 振り向いた先に、女子学生の姿を認めた時、亜哉は何かの間違いかと思った。

「えっと」

 意志の強そうな瞳が亜哉を見つめている。艶のある漆黒の髪が印象的な少女だ。立ち姿はどことなく気品があり、見るものを圧倒する存在感がある。

 取って食らわんばかりの睨みは、間違いなく亜哉のことを見ている。そこにあるのは、敵意。何らかの感情が行き過ぎたがゆえの強い情念が込められた瞳は、亜哉を逃がさないように射抜いてその場に縫い付けるかのようだ。

「ふん。気づいたか。つまらん。後ろから蹴り倒してやろうかとも思ったのだがな」

 少女は乱暴に吐き捨てる。それほどの視線を向けているというのに、彼女は気づかれないことを望んでいたようだった。

 そこでようやく、亜哉は少女のことを思い出した。

 新任初日、亜哉の素性を知っているかのような言葉を吐いたあの少女である。

「君は、一体……」

 なんなんだ、という意味を込めて、亜哉はぼやく。

 それに対して、少女はあからさまに顔をしかめた。あえて感情を押さえつけるかのように、丁寧語で応答する。

「……それはあんまりですね。先生。担任をしているクラスの生徒のことくらい、覚えているべきでしょう」

「白縫さん、ですよね。名前は、ちゃんと覚えてますよ」

「本当に?」

 ズイッと、彼女――白縫は、亜哉へと近づいてくる。いつの間にか、二人の距離はずいぶんと近くなっていた。彼女の一歩によって、二人は触れ合うかどうかという距離で向かい合うことになった。亜哉より頭一つ分低い白縫の顔が、彼のことを見上げてくる。どこぞの貴人の姫かと思うような可愛らしい顔立ちをしている彼女だが、今は圧倒的な雰囲気で相手を飲み込むような迫力を表情に浮かべている。

「本当に、覚えているのですか? 神城先生。……いや、覚えてはいませんね。覚えているのなら、そんな反応はできないはずだ。――ならば、こう言おうか」

 いつの間にか敬語が外れ、彼女本来の尊大で自然な口調が戻ってくる。

 彼女は挑むような瞳を柔らかく歪め、まるでイタズラでもするかのような笑みを浮かべると、ぎりぎり聞こえるようなささやき声で言った。

 

「待ってよ、ねえ。あーちゃん」

 

 その呼び方に、亜哉の中で古い記憶が一気に蘇った。

 自分の後ろをいつもついてまわっていた小さな女の子のシルエット。近所の子で、6つも歳が離れているのに、何故か自分になついていて、それこそ四六時中一緒にいた女の子。

 亜哉の目が見開かれる。

「き、君は」

 大和撫子の如き可憐さと気の強さを併せ持った目の前の少女には、確かに幼いころの面影があった。あれから七年が経つ。幼い蕾は美しい華を咲かせて力強く立っている。それはあまりにも、彼の知る少女からかけ離れているが、だからこそその成長は胸をいっぱいにする。

「姫ちゃん、かい」

 幼なじみだった少女の顔が、にっこりと微笑む。

 七年来の嬉しさからか。彼女は無垢な天使の如き笑みを浮かべた。

 ――その、後で。

 その笑みは、凶悪に釣り上がった。

「ようやく思い出したか。この馬鹿者め」

 続けて彼女の左拳が、深々と亜哉の肝臓のある位置に突き刺さった。身長差も合わさってか、まさに的確な角度で繰り出されたリバーブローは、不意打ちということも合わさって、訓練された亜哉の腹筋をたやすく破って衝撃を与える。彼は膝をつきながら驚愕に目を剥く。

「ふんっ」

 可憐な姿をしたじゃじゃ馬は、してやったりとでもいうような満足気な表情で見下ろしている。仁王立ちした姿は、天使のような幼いころからすると信じられない変化である。

「久しぶり、だ。あーちゃん」

 神城亜哉が切り捨てた過去。

 その遺産とも言える、6つ年下の幼なじみ、白縫姫乃との再会は、ドラマチックではなかったが非常にエキセントリックで、衝撃的なものとなった。