402号室の鏡像

あるいはその裏側

現実を侵食する虚構『シン・ゴジラ』感想

 シン・ゴジラを観てきました。上映開始から既に結構たっているにも関わらずその評判はウナギ登りで、もはや観客動員数一位だとか、今までのゴジラ映画とは一線を画したような話題っぷりに正直驚きを隠せないというのが今僕が抱いている正直な気持ちです。何というか、僕にとってゴジラってのは常に「子供向け」と言われていて、興味がない人にとっては目を向ける対象でも無かったという認識だったので、正直ごく普通の、特にオタクでも無い人が「シン・ゴジラ面白かった!」と言っているのを見ると、今凄いことが映画界に起こっているんだなと実感する。勿論、長谷川博己石原さとみ竹野内豊などと言う日本を代表する豪華俳優陣のネームバリューや、同じく日本が誇る名作『新世紀エヴァンゲリオン』を創った庵野秀明平成ガメラシリーズで名を馳せた樋口真嗣など、出演俳優から制作陣までかなり豪華な人材を取りそろえた上での評判とも言えるのはそれもまた事実だろうが、何よりも、作品自体から発せられる映画としてのクオリティの凄まじさ、難しいこと抜きにしても圧倒的な絵力に魅せられてしまうほど圧倒的なパワーを、僕はシン・ゴジラを初めて観た時に感じた。

虚構を成立させる為に徹底されたリアリティ

 シン・ゴジラを初めて見た時僕が感じたのは何より作品全体から発せられる「現実感」だった。一番最初、横浜沖で、小型船「グローリー丸」*1が漂流しているのを海上保安庁が発見したシーンをハンディカメラで撮影している所から、車載カメラが崩落する海底トンネルを映していた所、そしてトンネルから避難している所を動画サイトやSNSの描写を交えて撮影している所は、まさしく自分も記録映像や実況中継を観ているような感覚を冒頭で味わってしまった為、もはやその時点で「怪獣が存在する予感というもの」が現実味を帯びて自分の中に準備されていた。

 更に、何よりリアルだと感じたのがこの物語の主軸を占めると言っても良い会議描写だ。予告編では不安要素でしかなかった会議シーンも、物語が始まってみればもはやそれは快感でしか無かった。現実の政府関係者の間で行われている会議の描写が本当にリアルだったのか僕には分からないが、徹底した政府組織へのリサーチの元作り上げられたという話し合いの場面は、矢継ぎ早な会話の応酬にも関わらずすごく分かり易く作られていたと思う。各省庁の閣僚達が集まる中で各々の立場で意見を出し合い、あくまで様々なケースを想定した上で国民へと伝える。例えば災害が起こった時などに「こういうことが裏側で行われていたんだな」という一種のドキュメンタリーテイストな描写として、説得力ある絵作りが構築されていたと思う。更に言うと、基本的に劇中に登場する関係閣僚達のほぼすべてが有能だというのもこの物語の良い所だと思った。最初、海底トンネル事故が発生した際の会議シーンで、矢口の「巨大生物が原因かもしれない」という想定は馬鹿馬鹿しいと一蹴されてしまったが、それは現実的に考えてみれば当たり前の反応だろう。巨大生物など居る訳がない。海底火山の噴火と言うほうがまだ現実味に溢れている。しかし矢口の推測は不幸にも的中してしまい、そこから先、日本の優秀な頭脳たちによる判断が、ゴジラの出現によってどんどん裏切られていく。

 基本的に無能な人間はこの物語に登場しない。これが『シン・ゴジラ』を引き立てるひとつの魅力だと個人的には思う。よく政治や人間同士の駆け引きが主題となるドラマだと、利権を得る為に悪事を企てる人間だとか、誰かの提案を否定したいが為に足を引っ張るなど、または保守的な意見ばかり提示して、それゆえに多くの被害を出してしまうと言うような、つまり分かり易い悪が提示することで主人公側を引き立てるような描写があったりする。しかしシン・ゴジラの場合、誰もが国民の事を思い、最善の手を尽くす為に決断する。その代表が大河内総理大臣で、彼は始め、巨大生物の登場に対しておとぼけなリアクションをしたり、怪獣の出現にあたって「上陸はない」と断言してしまったり、自衛隊の出動に対して決断を渋ったりする。しかしそれは当たり前な事で、前例の無い事例に相対してしまえば決断は特に難しいだろう。日本国民の命を背に預かる身だ。安易な決断や前例の無い判断には考える時間がいるだろう――しかし、巨大生物の侵攻が都市に迫る今、即断せねばいけない自体がある。いざ二回目の上陸の際には既に覚悟を決めており、国民を守る為に自衛隊による総火力攻撃を命じた大河内総理の顔つきは、まさに一国のトップとして相応しいものだった。

 しかし、彼らの決断を容赦なく裏切ってくるのが、ゴジラと言う怪獣の恐ろしさだ。だからこそ面白い。キャラクター達が考える数々の対策や攻撃を何度も裏切って、ゴジラは驚異的なまでに進化していく。まさにこの時、ゴジラを見る矢口達の視点と視聴者である僕らの視点は間違いなくリンクしていた。怪獣と言うものを初めて目にする矢口達の視点は元より、ゴジラなどの怪獣映画で目が肥えた僕らでさえも予想だにしないゴジラに驚かされていた。矢口達が的確に下した決断、多摩川沿岸に展開した自衛隊の総攻撃、そして米軍の爆撃――それらの悉くを凌駕して尚、その場に屹立し続ける破壊神、ゴジラ。僕らが知っている現実の風景やその裏で下されていたであろう政治的判断の全てを、人間の理解を超えた道理で破壊し尽くすゴジラに対して僕らが畏怖に近い気持ちを覚えたのは、一重にスクリーンの世界が僕らの住んでいる現実世界と限りなく地続きに見えるようなリアリティが構築されていた事に他ならない。ゴジラの存在を他人事と思えず、いつか僕らが体験したような一種の「災害」と思わせてしまうような説得力がシン・ゴジラには存在する。ゴジラが通り過ぎたあとに残されたガレキや、放射線の拡散など、日本人なら実際肌で感じたような、あの薄ら寒い実感を帯びたおぞましさが、この映画には存在している。

 以前『虐殺器官』などを執筆した伊藤計劃という作家が『ダークナイト』を表する時に、平成ガメラを引き合いにこういうことを言っていた。

オタクなら誰でも夢見ているのではないだろうか。大金を掛けて、自衛隊などのリアルな軍隊が出てくる怪獣映画や、現実に仮面ライダーが存在したら、とかそういう「リアルさを持った漫画映像」を。それらは実際にはちっともリアルではない、というか怪獣とかその能力とか(オタク文化に対して愛のない「空想科学読本」によればそもそも怪獣やウルトラマンは立っていられない)、多分にフィクショナルな部分は保留しつつ、その外堀はガンガン現実の事物で埋めていく。それはオタクだったら多くの人が理解してくれると思う「願望」だ。そして平成ガメラに対する評価とはまさにそれであった。「防衛軍」でなく、モノホンの自衛隊が短SAMや90式やペイトリオットで対応する。「もし本当に怪獣がいたら」という妄想の許に渋谷を火の海にしたとき、ヒーローであるガメラに「被災」してしまった少女というキャラクターが出てきたとき、全国のオタクは驚喜したはずだ(違う?俺はそうなんだけど)。

表紙 - 伊藤計劃:第弐位相

 シン・ゴジラはまさにそういう作品であったと思える。勿論平成ガメラも非常に良く出来た作品で、樋口真嗣監督がシン・ゴジラに対してガメラ的DNAを継承しているのもおそらく間違いない。実際、中盤の東京炎上は、かつてガメラ3で見たような渋谷炎上、そして京都炎上を現代に蘇らせたと言っても過言じゃない破壊描写だった。夥しい数の破壊が巻き起こされながらも美しいと思ってしまう、賛美歌を思わせるBGMをバックに瞬き続ける破壊光線。まさに裁きの神が舞い降りたのかの如き、黙示録の光景の具現のような光景は、ただ、ただ見入るばかりだった。米軍の干渉や、避難の光景など現実的なシーンをどんどん積み重ねてきた後で一気に畳みかけるようにもたらされた幻想的光景、そして圧倒的破壊。ただ単に、いつものゴジラのように放射熱線を吐き出しただけなら、ここまでの感動は無かっただろうに、今まで徹底して描かれた現実があったからこそ、あの幻想的な恐ろしさが具現したのではないかと個人的には思った。

だからこそ、荒唐無稽な展開に力を感じる

 そして何を隠そう、ヤシオリ作戦からの無人在来線爆弾。これを語らずにして何がオタクか。日本の首都に密集する何万もの人間を乗せて走る僕らの在来線が爆薬を乗せて走るだなんて、一体どこの誰が立案した作戦なのかと思いきや、これも実は爆薬を乗せ威力を保つ為にもっともらしい理由が付けられているという凄さ。フェイズドアレイレーダーじみた自動迎撃システムでミサイルなどの攻撃を全て無効化する中、ドローンで飽和攻撃を行いエネルギー切れを誘発、更に無人在来線爆弾で足場を掬い、近辺のビルを爆破し拘束、その間に血液凝固剤を使い、ゴジラを凍結させようとする、一見荒唐無稽な流れが「ああ、これは特撮映画なのだな」と、実感させてくれる。それも、例えばメ―サー戦車やスーパーX、あるいはメカゴジラやモゲラなど、今までのゴジラ作品に登場した超兵器、メカは存在しない。現実の中心に屹立した虚構存在に立ち向かうのは人間の叡智、まさに日本人ひとりひとりの意地というのがまた熱い。血液凝固剤を製造する為に、官民一体となりタイムリミットに間に合わせようとする。この日本に第三の核兵器を落とさせない、その為だけに日本人が団結して立ち向かう様というのを見ると、2014年版のハリウッドゴジラと比較して考えてしまう。あちらの国では国土内で核兵器を使うことを容易に決断したけれど、こちらの国では既に二回、核兵器が使用されたという事実がある。核兵器、あるいは放射能について人一倍敏感で、忌避している国民性だからこそ、その決断に対しノーを突きつけ、最後まで模索していくというのがまさしく日本ならではの物語展開だと思う。

能天気なハッピーエンドに終わらないのがまた良い

 ヤシオリ作戦は成功。ゴジラを凍結させるのに成功し、日本に核が落ちることは辛くも防がれた。しかし核投下のカウントダウンはまだ続いており、この後も日本は、ゴジラの存在する、虚構混じりの風景で生きていかなければならないことを予感させ、不穏な空気を残したまま終わる。最後にアップになった尻尾が更なる不安を煽り、単純なハッピーエンドを許さない所が様々な解釈を生む元となり、これもまた話題性の種となっている。確かに、ゴジラという存在を抹殺出来ないままに、そのままこの土地で生きていかないというのは、原発事故の比喩だとか、現代社会を風刺する目線でも解釈できる。しかし、矢口達は言う。この国はスクラップ・アンド・ビルドで生まれ変わってきたと。戦争や災害で破壊されつつも、何度でも立ち上がり、既存の体制からより良いものになるようにと国土や政治を作り変えてきた。だからこそ、今度は俺達が良くしていくという気概が、あの世界の政治家にはあった気がする。しかし、希望だけではない。あのゴジラには、既存の科学では考えられない程の何かが眠っている。世界各国がゴジラから採取出来る新元素やテクノロジーを求め謀略を展開するかもしれない。あるいは、ゴジラの存在を盾にし、日本が何か策略をめぐらせるかもしれない。世界を滅亡に導く悪魔的存在を、いつでも蘇らせられる国家――そう、核保有国ならぬ、ゴジラ保有国家となった日本が下手をすれば暴力的方面に突き進むことだって、幾らでも考えられる。絶望と希望が相反する、単純ではない終わり方、それがシン・ゴジラのラストだった。

ラストの解釈について

 ゴジラの正体について、最後まで明確には語られなかった。古代生物が放射性廃棄物により突然変異した存在だとか、何も食べずに空気だけで生きられる完全生物だとか、従来の生物では考えられない速度で進化する存在だと言うこと以外に語られたことは乏しかった。元々のゴジラは太古の生物の生き残りだとか、恐竜だったとか、イグアナだったとか正体がある程度は推測出来る生物だった*2けれど、今回に関しては我々の常識の範疇から外れた存在として描かれていた。そのことを踏まえて考えると、あの尻尾がアップになったラストに関しても見逃すことは出来ない。多くの人が気付いているように、あの尻尾には何かがいる。人骨じみた何かが埋め込まれており、ここからヒトガタの何かが出てきそうな予感が、多くの視聴者から指摘されている。*3確かに、ゴジラは海棲型から両生類じみたカタチに、そして恐竜のようなカタチへと、生命体の進化を模したかのような成長を続けていた。だからこそ、今度は霊長類、人間の形をして増殖するのではないか。群体化し、飛行能力まで持つ霊長生物。さながら、黙示録のラッパを鳴らす天使のごとく。

牧博士が行ったこと

 牧博士の失踪とゴジラの登場が、全くの無関係であるはずがない。牧博士が「私は好きにした」と遺書じみた伝言を残した後、ゴジラが現れたことから、博士が何らかの仕掛けをゴジラに施したのは明らかだろう。個人的な考察として、博士は自分自身をゴジラに与えた=人間としてのDNAを取り込ませたのではないかと思う。最後に霊長類じみた形に変異しようとしていたのは、牧博士が自ら、もしくは人間の遺伝子をゴジラに投与し進化を促したからではないか?と考えると、多少は腑に落ちる。少なくとも、牧博士がゴジラに対して何らかのアプローチを行い、それがゴジラ覚醒のきっかけとなったのは間違いないだろう。*4

とまぁ、色々と語ってはみたけれど。

 まだまだ語りきれない部分があるくらいにシン・ゴジラは奥深く、そして面白い。現実に即した虚構を成立させる為に細部まで綿密な考証を行い、尚特撮らしい浪漫を演出したことは凄いの一言だし、それを一部のファンだけでなく多くの観客を魅了させたというのが、まさにこの作品の素晴らしさだと思う。こだわるところをこだわって、一部のオタクだけに理解し支持される作品を作り上げるだけでも凄いのに、その細部をこだわって尚万人受けする作品を作れるヒットメーカーに庵野秀明はなったんだなと言うのが正直な感想なのかもしれない。とにかく、すごい作品。素晴らしい作品だった。

*1:84年版ゴジラ冒頭のオマージュだと思う。

*2:そういえば、太平洋戦争の怨念集合体だったゴジラも居た

*3:あれが飛行能力を得た霊長類じみた生物、つまり「巨神兵」になり得るという指摘は面白いなと思った。まぁ、そのままそういうことになるとは思えないけど、あれが『巨神兵東京に現る』に繋がるセルフオマージュ的な解釈は面白そうだ

*4:皮肉にも、博士が海に潜ってゴジラを殺した初代と対になっているのが面白い