402号室の鏡像

あるいはその裏側

『オナニーマスター黒沢』を読んで

キャッチャー・イン・ザ・トイレット!  (双葉文庫)

キャッチャー・イン・ザ・トイレット! (双葉文庫)

 ついにあだむさんはおかしくなったか。エロ漫画を紹介するようになったか。

 いやそんなこと無いんですよ。とはいうものの昨晩、僕は眠れない夜の睡眠導入剤として適当に読めるウェブ漫画あるいは今晩のオカズにでもなりそうなえっちな漫画でも探していた。

 元々手軽に読めるウェブ漫画という類は大好きで、色々ネットに溢れているものを手当たり次第に読んでいた時期があった。だからあまりにも珍妙な題名を冠しているこのウェブ漫画が評判を博している事を一応は知っていて、、最初は僕も奇怪な思いで見ていた。「オナニーマスター?なんだそりゃ?」と言う具合に題名だけで偏見を持っていた。多分、僕のような人間は多く存在していて、このブログを読んでくれている大多数の人もそう思っているのだろう。だからとりあえずは断言しておきたいと思う。

 『オナニーマスター黒沢』は最高の青春漫画(小説)であると言うことを。

その日も僕は、学校の女子トイレで自慰に耽っていた。
特殊な性癖を持つ中学二年生、黒沢翔。
放課後の女子トイレでの「日課」だけを生きる糧としていた彼だったが、
二年目の終業式を前にして、現場付近の廊下で女子生徒と遭遇してしまう。女子生徒の名は北原綾。
三年生の一学期、教室で再会した彼女は、悲惨なイジメにあっていた。
そしていつしか黒沢は、北原の奇妙な復讐計画に巻き込まれていく。
中学校を舞台に、二人の「性戦」が始まる!

オナニーマスター黒沢

 この物語は、女子トイレで毎日オナニーをすること以外に価値が見いだせない少年が、ふとしたことでイジメから始まった様々な事件に巻き込まれていく話である。どこか某新世界の神やブリタニアだかなんだか皇子を彷彿とさせるクールな物言いとカリスマ性溢れる台詞を吐く黒沢だがやってることは純然たる変態オナニーで、普段からクラスメイトの女の子に劣情を催し、あろうことか女子トイレでぶっかけるろくなやつではない。彼は教室において空気と同様な存在だ。運動も勉強も容姿も平均的。決してクラスのスターになることもないし、イジメの対象に選ばれることはない。突出もせず、ただ灰色の青春生活を自慰行為に費やしている。でもそれでよかった。それが彼にとっての幸福だったから。

 だがそんな彼が、クラスにおいてイジメを受けている女子生徒、北原綾に出会ってしまい、彼女から持ちかけられる「取引」によって、イジメに対する復讐劇に加担していく。

 ただ、この復讐劇を通して変わっていくものがある。それはこの孤高のオナニストである黒沢翔に他ならないのだ。
 灰色の青春時代を送っている黒沢が出会う悪意、恋愛、友情、そして自分の殻からの脱皮、そして何より、イジメからの救済。僕らの周りにも溢れているマイノリティや、ほんの些細な日常の中にある恋愛沙汰、受験を通しての悩みなど、大人からしてみれば些事にしか過ぎない。だけれど中学生――思春期のさなかにある少年少女たちにとっては非常に大事なことで、通り過ぎなければならない通過儀礼だ。誰もが傷つき、傷付けあい、知らず知らずのうちに思春期の狭間でもがき、悩みに悩んでいる。DQNとオタク、オタクとオタク、DQNDQN。クラス内スクールカーストを味わった人間なら身にしみて心が痛くなってしまう程にリアルな学生社会の現実が事細かに書かれているとは、不覚にも僕は動揺しながら、先に読み進める手が止まらなかった。
 
 オナニー、と言うただ一つのファクターで捉えてしまうにはあまりに勿体無いものがこの物語の中にある。僕がこの物語の最後を読み終わった後は、例えばサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読み終えたような清涼感が心の中に漂っていた。途中で手が震えて読むのをやめてしまいそうになるくらいに心抉られる展開が幾つもあって、何処かシニカルにものを捉える黒沢に僕が似ていると思ってしまうのもあって、ぽっかりと穴が開いたような読後感が、僕を今の今まで完全に支配していた。

 この物語は初出が小説で、そのあとウェブ漫画として公開されてからボイスドラマ化したのらしいのだが(ちなみにこのボイスドラマ、黒沢の妄想シーンも鮮明に再現されている。女性声優の熱演に大喝采。エロい)僕はまだ漫画の方しか読めていない。『キャッチャー・イン・ザ・トイレット』という名前で書籍化し一般販売もされているのだが、書籍化においてサリンジャーを意識したタイトルになっているのももはや偶然ではないだろう。まさにこの物語は青春の刹那を切り取ったかのような甘酸っぱさと、イジメに対する断罪の快感、そして、贖罪の禊などあらゆる要素が含まれている大傑作だ。

……いや、ぶっちゃけ前半はスゲーアホ臭いんだけどね?

同人とか、電子書籍とか、最近考えている事とか。

Kindle Fire HD 7 8GB タブレット(2013年モデル)

Kindle Fire HD 7 8GB タブレット(2013年モデル)

 最近「Kindle Fire HD」とやらが一万円くらいで買えたので、今流行りのタブレット旋風とやらに乗っかってやろうかと思って利用している。使い勝手としては、WEBブラウジングや動画サイト閲覧のブツとしては「素直にiPad買っとけば良かった」とか思ってしまうぐらい悪いんだけど、まぁそういう事を考えてしまうとKindleの本質を見失ってしまう気がするので、とりあえず電子書籍の可能性についてお話をしようかと思います。電子書籍は一時期「書店業界は電子書籍に駆逐される」みたいに危機感混じりで持てはやされていた訳だけど実際はそんな事なくて、そもそも使用用途の違いや利便性などがまだ時代に追いついてない節もあるし、まぁ色んな面で全然世の中に普及してないよね。漫画や雑誌を読む分には便利だと思うんだけど、小説とかを買って読むって言う文化が浸透するにはまだ結構な時間がかかるんじゃないかな。ってな訳で「紙の本を読もうよ」(CV 櫻井孝宏

 そんな電子書籍事情な訳だけど、かと言って僕が読まない訳ではなく、普通より安価なものを選んでたまにポチったりしています。例えば一冊百円ないし無料だったりする青空文庫とか、著作権切れた作家の小説とかだったら国内海外問わず、書店で買うより断然安価でダウンロード出来る。僕の好きな夢野久作だとかドストエフスキーなんかが無料で読めるってのは結構便利だという。別に読むにしても読まないにしても、読んでつまらなかったり面白かったりしても、無料だったり百円とかだったら文句の言いようがないし、面白かった場合は凄く得じゃないですか。飲み物とかお菓子を買うようにさらりと小説が読めるのって言うのは素晴らしい事だと思うよ僕は。

 って事で本題。少し話が変わるけど、僕は前に一回だけ文学フリマと言うイベントで同人誌を頒布したことがある。小説や文芸誌、評論などに限った同人即売会だったのだけど、結構頑張ってそれなりの小説が出来あがった覚えがある。(相方には随分と苦労をかけたけど)。そのあとにサンシャインクリエイションと言う、今度は結構有名な同人即売会で二次創作同人誌をコピー誌というカタチで売ったんだけど、これもこれで結構大変だった。まぁこの話は置いておこう。重要なのは、文学フリマにおいて僕が頒布していたのが、純粋なオリジナル小説であることと、きちんとした印刷所で製本をして頒布していたという事だ。普通に同人活動をしていて、日常的に同人誌を頒布しているサークルさんならそんな事当たり前なのかもしれないけど、初挑戦の僕からしてみれば、これがまた結構コストがかかるものであり、確か二十部だか三十部刷っただけでも三万円だか四万円は取られた気がする。(フルカラー表紙付きでカバーはなし。ページ数はそこまで多くなかった気がする) それにノンブルの合わせとかルビの振り方、ワードの設定までこれがまた面倒で、最後まで色々と問題を抱えての入稿だったのを覚えている。僕の筆が遅かった部分も、推敲に時間をかけられなかったという原因のひとつではあるのだけど。

 何が言いたいかというと、個人的にオリジナル小説を書いており、尚且つ同人誌には興味があるけれど、初期投資費用が捻出しにくかったり、同人誌を作る際の製本技術が足りなかったりする人間は凄く多いと思うんです。かくいう僕も、正直執筆より製本作業の方が辛く苦しかった思い出の方が強い。例えば二次創作小説とかだったら畑が広くオンリーイベントも沢山あるので、先人も沢山いたり教えてくれる人もいると思う。公開の手段も結構多いしね。だけどそれがオリジナルの小説とか(多分これは漫画でも似たような側面があると思うけど)だとすれば、中々に公開する機会は難しい。漫画も小説も同じように、ユビキタス社会の現在ではいくらでもブログやコミュニティサイト(Pixivとか小説家になろうのような)で公開して評価を貰う事が出来るけど、残念ながらその中の多くの人間が埋もれてしまって、多分不当な評価を受けたりそもそも見てもらえない名作だってうずもれているのかもしれないよね。

恵まれない表現者たちのために

そういうクリエイター達が才能を発揮する場所として、電子書籍があっていいかもしれないって最近考えている。偉そうな事を毛頭言うつもりはないんだけど、やっぱりそう言った不遇な表現者がうずもれてしまうのは凄い勿体無いと考えていて、ネットとかで凄い面白い小説とか漫画描いている人を見ると「こういう人はもっと大きな場で評価されればいいのに」とか思ってしまう訳なんですよ。だからまず、僕は電子書籍の出版料がほとんどかからないと言う事に注目しました。

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 調べてきたらこんなに面白そうなものが出てくるじゃないですか。実際問題ここまでオトクじゃないと思うので色々な罠が仕掛けられているかもなので、一概に「まぁ手軽!」と言って手を出すのは危険かもしれないですね。七割のロイヤリティを獲得するまでにどのくらいの値段を設定しなければいけないのかとか、どういうフォーマットがkindleスマホで読む際に適切なのか勉強しないともいけないし。
 そう言った部分を解消出来たと仮定して、じゃあどうやったら色々とウマイ事出来るのかを考えました。

漫画、イラスト、小説、評論とか

 つまり何が言いたいかと言うとアンソロジー本なんですよね。分かりやすく言えば講談社が前に出していた『パンドラ』とかをもうちょっと簡素なフォーマットにして、ある種色々な人間が書きやすく同時に読みやすいような窓口のブツが出来ればなとか思っています。そんな事を考えているのは僕だけではなく、もはや既に講談社が『BOX-AiR』として、ネットや電子書籍向けにやってたんですよね。恥ずかしい……とか思っちゃったけど、まぁ「新人賞を受賞」とか色々と窓口が狭い講談社とかじゃなくて、やりたいと思った人間が集まって適当にいやある種のテーマ性を決めて小説やらイラストやら評論やらを、載せられる同人誌的なものが作れれば楽しいんじゃないかなと最近考えています。やりとりするのはデータだし、売り子も必要ない訳だから作り手が東西南北何処に住んでいてもチャットでやりとりしてネットで売り買いするから問題は少なさそう。そこから発展してアナログな出版に移行して同人誌作ってイベントに出店出来たらそれもまたいいし、そもそも対面で電子書籍を販売すると言う新しい方法にだって挑戦してもいいと思うんだよね。こないだの冬コミでやってる人もいたけど、

 電子書籍であれば、購入者に渡すものはこのシリアルの印刷されたカードだけなので、印刷時間、コスト、物量が最低限で済みます。
 イベント終了後も、紙の書籍だと売れ残ったものを持ち帰るのは大変ですし、それが部屋のスペースを占めてしまうこともあります。でも、この方法ならそういう課題も解決されます。
 前回のコミケで『同人イベントに電子書籍を紛れ込ませる。』電子書籍版を頒布してみたのですが、制作からイベント終了後までこれらのメリットを実感できました。

電子書籍の対面販売――冬コミブースに突撃 - ITmedia eBook USER

 この形ならば、小説でも評論でもイラストでも漫画でも、分け隔てなく出版が可能だし、ページの厚さに悩まされずに同人即売会で頒布出来る訳だし、気軽に買ってスマホで帰りに読むって言う流れも出来る訳だよね。タブレットスマホをその場に置いておけば見本だって問題ない。こういう新しい手法は、一見面白おかしく見えるけど、気が付けば業界のスタンダードがこれになっている可能性だってあるからあなどれない。

まぁ、結論そういう事をやりたいなぁ、と。

 最近、自分の書いている小説とかを賞に出すだけじゃもったいないとは思ってきて、書きためてきて落選したものが色々あって、じゃあ他の方法で世に出してみればいろいろ面白いんじゃない?とか思ってきたので考えをまとめる為に記事にしてみました。マジで適当に考えた事を書いているだけなので支離滅裂なのだけど、ちょっと勉強して挑戦してみたいなとは考えている。長々と書いてしまった訳だけど、仮に意見とか「こうしたらいいんじゃない?」とか、少しでもシンパシーを感じてくれた人がいたらコメントでもツイッターでも返事くれればうれしいです。まだ雲のような曖昧な形だけど、実現出来れば面白いと思うから。

Juke books

Juke books

なんでこんな事考えたかって言うと、僕の好きな作家のひとりである地本草子さんが参加してた企画を見てパクリインスピレーションが湧いてきたので僕もやってみたいと思った次第であります。
黒猫の水曜日―Wednesday in Chat Noir (集英社スーパーダッシュ文庫)

黒猫の水曜日―Wednesday in Chat Noir (集英社スーパーダッシュ文庫)

本草子さんの『黒猫の水曜日』は学園ミリタリーアクション。ボーン・アイデンティティとか007みたいなラノベで斬新だからおもしろいよ。よろしければぜひ。

深見真『キャノン・フィストはひとりぼっち』

「その記憶を盗らないでください。それもぼくの大事な思い出なので」

 記憶、と言うものには幸せと不幸が両方内包されている。過去に自分が為した所業や見たもの、経験。すなわち過去の人生が全て内包されているものであり、自分「そのもの」であると言っても過言ではないのかもしれない。以前ブログで紹介した(気がする)クリストファー・ノーラン監督『メメント』と言う作品で、前向性健忘症を患った主人公が、喪失した主体性を他者に利用されると言うような内容を扱っていたけど記憶の喪失自体は自己の喪失に直結してくる。『ボーン・アイデンティティ』をはじめとした記憶喪失作品で、新天地にて記憶を失くした主人公が、そこで得た経験自体に価値を感じ、過去の記憶が不要となる展開は良く見られるけど、それって要するに、新しい自分を取り戻したから過去の自分は要らなくなったという事なんだよね。つまり、記憶というものはイコール自分に他ならない。友人や家族、同僚など他者から観測された情報――記憶、写真、映像などを総合しても、決して自分にはならない。主観的に取得した、眼で見て鼻でみて指で感じたリアルな感覚、全てが総合的に処理されたものが記憶なのだと。

 「記憶喰らい(Memory Eater)」通称「M・E」はそれらを食い潰す。正体不明の知的生命体らしきもの。僕らの世界のすぐ傍に棲み、僕らの全てを略奪し「白紙化」してしまう。現存する通常兵器の一切が通用せず、物理的攻撃の一切が通用しない。記憶を喰われ「白紙化」した人間は生命機能を喪失し、結果的に死亡してしまう。
 ――それらを、密かに処理する役目を担った少年少女達がいる。

 彼らの戦いを描いたお話が『キャノン・フィストはひとりぼっち』だ。

 深見真の作品は銃撃戦や格闘戦をメインにしている他、超能力を初めとした異能力も作品に混ぜ込まれる事が多い。『アフリカン・ゲーム・カートリッジズ』では「銃使い」と呼ばれる「干渉粒子特性能力者」が、無から銃を生みだす能力を使い戦っていく。『疾走する思春期のパラベラム』では「パラベラム(Parabellum)」と呼ばれる特殊能力者たちが「P・V・F(サイコ・バリスティック・ファイアアームズ)」という銃型超兵器を使用している。『僕の学校の暗殺部』でも「生命躍動剤(エラン・ヴィタール)」と呼ばれる、超能力を一時的に使用可能となる薬品が登場し、戦闘に活かされている。

 今作では「記憶喰らい」に対する唯一のカウンターウェポンとして「感情記憶合金(Emotional memoly alloy)」と呼ばれる特殊金属を使用した「感情反応装甲」と呼ばれる特殊武装が使用される。心理的な要素が武装として還元される「パラベラム」に類似している所がまたおもしろい。精神の流れが武装化するという理屈を好んでいるのが深見さんの作品に共通しているのかも。感情の一番奥底……忘れたい程に残酷な記憶、つまりトラウマに類するものを武装化し「ME」に対抗する為に展開する。心理的描写の深さから起因する文体のイノセンス、無垢な感情の流れと悲痛な過去を力に換えると言うのがこの作品の面白い所。

 例えば、僕達には忘れたい過去がある。簡単に言ってしまえばいわゆる「黒歴史」という奴だ。調子に乗っていた厨二病時代にしたことや、過去に書いた妄想小説がネットデブリとして漂っていたり、人間はいくつもの間違いを起こし、反省することで生きている。失敗を糧に人は成長するとは言うが、苦い記憶なんか本当は誰だって欲しくない。失敗から成功した人だって、本当は初めから成功したかったに違いない。

「楽しいことだけを数珠のように紡いで生きてられるはずがないんだよ、特に僕はね」

――『新世紀エヴァンゲリオン碇シンジ

 僕の言いたい事の八割は碇シンジ君が代弁してくれているんだけど、1990年代後半から現代にかけて(つまりバブル崩壊後くらい)から日常に薄暗く漂う厭世感から抜け出せてない人が殆どであると思う。楽しい事を札束振りかざして永久に続くと思っていた時代はとっくに終わっていて、僕らはいつ来るか分からない失敗や不幸を恐怖しながら僅かな幸福の残滓を啜っている。全ての人間がここまで絶望的な人生を送っているのかと言われればそれはノーであるけど、灰色の記憶を抱えて、先の見えない未来に足を進めなければいけないのだと、暗澹たる気持ちで今を生きているんじゃないか。僕はそう思って仕方がない。

 この作品は、そう言ったいわゆる「不幸の記憶」を糧にした強さが描かれている。

 さっきまでウダウダ文句を言っていた手前恥ずかしいんだけど、「消えてしまえば良い」という過去を承認することが、人間の成長であると思う。食べられなかったものを食べれるようになった時とか、許せない人間を許した時、ひいては誰かの死を受け入れた時。「失敗は成功の元」と呼ばれる所以がこれで、自分において確実な困難であった記憶を克服することで、危機は経験へと変化する。それがつまり、精神の伸び幅なんじゃないかなぁと個人的にはそう思っている。マイナスであった記憶を許容し、自分の中に癒着させた時こそが、やっぱり幸福の源が生まれる瞬間なんじゃないか。それが簡単に出来れば苦労はしないし、出来ないからこうして僕もウダウダと二十歳超えた手前シンジくんみたいな精神状態でいるんだけど。

 トラウマの記憶を弾丸に換え、銃器に載せ砲火と為す。過去を振り切るために「忘却」を否定するこの作品に、僕はどうしようもなく、いとおしさを感じてしまう。

メメント [DVD]

メメント [DVD]

 

これがさっき挙げた「記憶喪失」を元にした作品。両方すごくおもしろいよ!

僕の学校の暗殺部 (ファミ通文庫)

僕の学校の暗殺部 (ファミ通文庫)

アフリカン・ゲーム・カートリッジズ (角川文庫)

アフリカン・ゲーム・カートリッジズ (角川文庫)

疾走する思春期のパラベラム (ファミ通文庫)

疾走する思春期のパラベラム (ファミ通文庫)

深見さんの作品は合う人には本当に刺さる作品なので、語り合えるお友達がほしいのでみんな読もう。

最後に、言い忘れてたけど「あけましておめでとうございます」

ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』

闘争領域の拡大

闘争領域の拡大

「ずっと前から駄目なんだ。最初から駄目なんだよ。ラファエル、君は絶対に、若い娘が抱くエロチックな夢をかなえられない。仕方がないものと諦めなくてはいけない。自分はこういった物事に縁がないことを受け入れることだ。いずれにせよ、手遅れなんだ。いいかい、ラファエル、セックス面における敗北を君は若い頃から味わってきた。十三歳から君につきまとってきた欲求不満は、この先も消えない傷跡になるだろう。たとえ君がこの先、何人かの女性と関係を持てたとしても――はっきりいってそんなことはないと思うけど――それで満たされることはないだろう。もはや、なにがあっても満たされることはない。君はいつまでも青春時代の恋愛を知らない、いってみれば孤児だ」

 ミシェル・ウエルベックは初めて読んだ。

 完全な非モテ層と化しながら努力をしていながら、生まれ持った容姿のせいで完全に人生の敗者となったラファエル・ティスランと自分を取り巻く世界の残酷さを、語り部である「僕」は観察し続けている。語り部を通して読者は彼らの苦しみに同情し憐憫を覚えるが、それは決して他人事とは思えない痛みが伴う。
 「僕」=読者と読み変えれば、それは物語の結末ですら完全な投影に位置しているんですよ。ティスランと出会い行動をともにし続けた「僕」は、結果的に彼に移入しつづけた挙句に精神を疲弊させ、鬱病を発症させてしまうんだけど、残酷な社会が下したティスランへの断罪に耐えきれなかったからなんでしょう。物語を俯瞰している読者の悲しみと、「僕」の鬱病発症のタイミングが合致しているところが面白い。
 モテと非モテの境界線って、やっぱり容姿に尽きてしまうんですよね。「ただしイケメンに限る」というネットスラングに表せるように、人間の内面なんて誰も見ちゃいない。ブサメンに生まれてしまえば、努力を強いられ、努力したとしてもイケメンに追いつけるかどうかは分からない絶望に包まれながら生活しなければならない。この物語のティスランはそれを理解していながら、ナンパやパーティなどでチャンスを掴もうとするも、それを横から来たクールガイにいつも掻っ攫われる人生だから、結果的に壊れてしまった。だから彼ら――モテ層VS非モテ層の闘争領域は拡大していくばかりだ。

 まぁ、ただ。完全なブサメンが人生の落伍者になる必要は無いんですよ。僕という人間の経験からしてみれば、平均以下の容姿(自称)でも恋愛に勝利できる可能性が無い訳ではない。だから僕たちは闘争を続けなければいけないんです。世の中に美女が何人いて、その内何人がイケメンに掻っ攫われると思ってるんだ?

 壊れて行くか戦うかは個人に委ねるとして、ミシェル・ウエルベックは闘争領域の観察者に徹していた。僕はどちらなのかは分からないけど、少なくとも非モテ層の一派として、配られたカードで戦わなければいけないことは分かっている。

深見真『ゴルゴタ』

ゴルゴタ―Golgotha

ゴルゴタ―Golgotha

 深見真に銃撃戦と拷問を書かせれば右に出るものはいない。そう確信させる一冊がこれ。

 『ゴルゴタ』を読了した。自衛隊特殊作戦軍という極秘裏に設立させた、日本唯一の実戦思考部隊に所属する主人公が身重の妻を殺され、その復讐の為にヤクザ、ひいては日本政府までも敵に回すーーというシナリオ。
 まさに日本版『ランボー』といった所。国の為に身を尽くした人間が、守った国民、ひいては国そのものに裏切られ、復讐の怒りを爆発されるという点が凄く似ていますが、しかし背景が日本という所をよく生かしていて、日本警察の銃撃戦に対する姿勢の低さや、少年犯罪に対しての刑罰の軽さ、政府からの圧力に対しての脆弱さがよく書かれていて、主人公が戦う理由が加速度的に増えて行き、銃撃戦のカタルシスに繋がるんですよ。
 主人公ひとりが警察特殊部隊を殲滅するなんてリアルじゃないと思いきやそこに現実感を与えるミリタリー設定描写は作者である深見真のお手の物。正直彼はミリタリー描写の監修とかもやれると思う。
 脳内に実写化されるビジョンがありありと出てきたので案外実写化向きなんじゃないの?とか思ったけど自衛隊員が民間人に復讐とか銃器を密輸不法所持とか、拉致した殺人犯の腹を裂いて臓物引き出したりして拷問とか絶対無理だと思い直す。
 でも復讐劇って読んでて気持ちいいんだよな。安易に「復讐は何も生まない!」とか登場人物が言い出さずに、刑事ら他の登場人物も主人公の思想に同情しながらも、それでも殺人を許すわけにはいかないプライドで動いている心理的葛藤がとてもうまく書かれている。
 
 陰惨なストーリーなのに後味が悪くない、ちょっと不思議な感じ。