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402号室の鏡像

あるいはその裏側

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 

 「ラノベみたいなタイトルだな」というのが新作の情報を得た時に思ったことなのだけど、読了してみて初めて、「良いタイトル」だということを再確認した。

 人間というものはある種のコミュニティを形成して生きていて、ありとあらゆる個性を持ちながらも、それを発揮しつつ、ある程度は抑制する事でコミュニティの存続を図っている。この作品では個性を「色」として表記し、主人公である多崎つくるは、自分に色=個性が無い事に悩み、しかし周囲の人間による優しさで成り立っていた。

 が、ある日突然つくるは色を持つコミュニティから放り出せれ、存在意義を見失ってしまう。コミュニティに属するということは、イコールその集団に依存するという事だ。かつての自分もそうだったのだが、集団に依存してしまうと、その集団から排他された時、自分は赤子の如き無防備な状態に晒されてしまう。多崎つくるは、そういった経験があるからこそ通常の人間関係を構築出来ずに孤独な生活をし、広い交際関係を持てずにいた。

 そういった部分に感情移入してしまったからこそ、この作品が面白いと言えたのかもしれない。排他された大学時代から、社会人に至るまで化石のような暮らしを続けていた多崎つくるが、過去の清算の意味を込めて「巡礼」を始めるのは、即ち過去との対話をしようとしているのだと思った。過去から逃げてしまえば、多崎つくるは何も変わらずに居られただろう。終わってしまった物語を捨て、新しい物語を記すことも可能なはずだった。社会的にも自立し、パートナーにも不自由していない彼がほろ苦い過去と向き合おうとしたのが、多分、色彩を持たないはずの多崎つくる自身の「色」なのだろう。(それは大学進学の為に、名古屋から上京した彼の勇気からも伺える)

 結局は『自己発見』のロードムービー(巡礼)として、ディケンズの『クリスマス・キャロル』と同じように、過去を含む全ての人間との対話を通し、喉元にへばり付いたしがらみを氷解させていったつくるは、自分を肯定してくれる人の元へ帰っていき、その情念の温度を変えた。

 自分を切り捨てる事によって色彩を育て、変わっていった友人達に再び出会うことで、多崎つくるは自分が持っていた多様な色彩をようやく咲かす事が出来た。彼自身に個性は存在し、それは何かを「作る」事が出来る才能なのだと、過去の父や友人との出会いによって、自己発見する終末に至る。

 まぁ色々謎は残るけど(灰田ゲイ説とか緑川くんとか、レイプ、殺人の真相とか)多崎つくるクンがある程度救われたのだから良いのではないでしょうか。いつもの村上春樹らしい曖昧かつ余韻を残す終わり方なんでしょうか。(村上春樹がこれをやると「深い!」って言われて、他の作者がこれをやると駄作と言われるのが面白いけど)

 

 自分に出会うのは、とても難しいけど。他人から見た自分は、確かな自分を知っているんだって気付かされた一冊だった。