402号室の鏡像

あるいはその裏側

振り返らない物語から、振り返る物語へ。『君の名は。』感想

 『君の名は。』を観てきた。単純に、とても良い作品だったと思う。元々、新海誠作品は大好きで、『ほしのこえ』から『言の葉の庭』まで、毎度楽しみに観させていただいた監督の作品なので、今作も前々から期待していた。期待に違わない名作で、今現在絶賛されているのも納得な出来だったと思う。
 
 ただ、正直な所不安要素が大きくて、予告編だけ見ると個人的に苦手な要素がとても多そうで*1、何となく、大衆的な部分が多くを占めてしまっているのではないかという怖さがあった。というのも、新海誠監督は、完璧過ぎた思春期の憧憬だとか、決して縮まることの無くなってしまった男女の距離や、もう戻らない絶対的な時間の経過により生まれた断絶、幻想的過ぎる都市の描写など、観る人から観れば「拗れている」と形容されるが、理解出来る人には本当に心に刺さるような作風で多くの人を魅了していて、僕もそのひとりだった。だからこそ、さわやかな青春や恋愛作品を想起させる『君の名は。』に対して、どこか僕は忌避するような感覚を抱いていた。たぶん多くの人はこのような清涼感ある作品を求めていて、それはきっと正しいのだろうけど、ただ単純に、今まで新海誠作品を観ていた僕は「何かが違う」と一人勝手にすれ違いのような思いを抱いていた。予告編を観た人たちの前評判でも僕と同じ感覚を抱いている人が多くて、実際公開してから今日この日まで僕は劇場に足を運ぶ気が起きなかった。

 それで、いざ『君の名は。』を観に行く勇気を振り絞る為に、わざわざ早起きまでして美容院まで行って髪型を整えて、あえて日曜日を外した月曜日、人が少なそうな時間帯を狙って劇場に足を運んだ。だけど見回してみれば辺りは女性、小学生、中学生。以前都内に『言の葉の庭』を観に行った時とはまるで違う客層に、はたまた胸の内のこじらせた感覚が頭を出して、押さえつけるのに必死だったけれど、とにかく序盤は自分の中のこじらせ感を黙らせるのに苦労していた。主人公の瀧とヒロインの三葉はいままでの新海誠作品に出てくる登場人物の中でもトップクラスに真っ直ぐで、ふたりとも年頃にかわいくて、ドタバタしてて、そのふたりの入れ替わりがラブコメチックでとても楽しかったのだけど、どこからしくない感じに「面白いけどこれは違う」という感覚が頭を占めていた。

今までとは違うけれど、これは紛れもない『新海誠』作品で

 けれど突然、入れ替わり現象が起きなくなって、その真相を調べに三葉の住んでいた村へと瀧が訪れたところ、実は三年前に彗星の破片が衝突して、村は消滅していたことを知る。多くの人が死に、その中に、入れ替わっていたはずの少女、宮水三葉が居た――という展開には度肝を抜かれ、ここから先はのめり込みっぱなしだった。死んでいたはずの人間、時空の乱れ、物理的以前に断絶された運命、会いたいけれど会えない時間の距離――いままでの作品で培われてきた新海誠作品のエッセンスが炸裂し始めるなれど、それでいて、真っ直ぐな物語の流れがとても楽しい。時間的にも遠く離れていて、どこか不明瞭な存在なれど、オレはここにいて、お前もここに居るという、物理的にも時間的にも届かなくても、心だけはそばにいるよという『ほしのこえ*2を想い起こさせるような展開だった。だけれど決して会えない訳じゃなくて、あくまで会いに行こうと三葉が上京したり、もしくは瀧が三葉の村に行こうとするなど、二人とも「繋がろう」とする意思があった所も良かった。『秒速5センチメートル』の場合は、会おうと思えば会える距離にも関わらず、実際に会わずに貴樹自身が想いを募らせ過ぎてしまったという部分があって、お互いに会おうというバイタリティの強さ、若さがゆえのエネルギーを感じられた所が面白かった。実際に二人が会っていたということが、三葉の髪留め、そして瀧が手に巻いている紐という伏線があって、そこで時間のズレというものをよく表現していたんだなと思う。スマホやチャットの存在など昔とは違って、どこの誰とでも会おうと思えば会える現在の時代において、簡単に会えるはずが、実は三年の時間のズレという途方もしれない断層があるというのがこの物語の落とし穴であり、また奥深いところ。

 彗星の破片が村に墜ちるという話を聞いてから、破滅の運命を回避しようと、時間が違う場所で懸命になる所は、正直もう少し描写が欲しかったなと思う。三葉と父の間の確執があって、にも関わらず、どうして三葉は最終的に父親を説得できて、村人たちを大災害から救うことが出来たのかという疑問は残る。それでも危機的状況を前にして、大人たちの知らない所で少年少女が奔走するという流れはセカイ系あたりの雰囲気を感じて、ゼロ年代を彷彿とさせる感覚で好きだ。ぼくときみが救った世界だけど、他の誰の記憶にも、英雄的行為の記録は残らない切なさ。

 そして、ぼくらでさえも結局、このことは忘れてしまうのだ。時間が経過して、記憶自体が風化してしまって、またも夢物語のようだった時間が現実の乾燥した空気に呑み込まれてしまうというのも切ない所。就職活動で巧くいかず、なんとなく、かたちのみえないなにかを追いかけている瀧。一体何が自分を引き付けているのか分からないもどかしさというのは、思春期から大人になるにかけて僕らもきっと経験したはずで、この辺りは『秒速5センチメートル』と同じような、思春期の出来事に対する憧憬的な心の痛みを感じた。

なんとなく、腑に落ちない部分も多いのだけれど

 ただ、単純に、三葉が奉納した口噛み酒*3を飲めばもう一度入れ替われるだとか、ちょっとした疑問点が多くて、そういう場所は気になった。宮水の家系には代々入れ替わり能力があったという所から考えると、入れ替わり能力自体は、最初に村に隕石が墜ちた際に、宮水の家系に突然変異的に生じたものであり*4、そのクレーターの場所で、宮水に縁のあるものと肉体的接触(唾液の交換=疑似的な接吻?)をすれば入れ替われるなんて考察も出来ると思う。隕石の墜ちた場所で突然変異が起こるとか、伝奇SFとかの展開では散見出来るし、もそういう所を考えると非常にSF的で楽しい部分もある。

 しかし、未だに考えても分からないのが「どうして瀧でなければ無かったのか」という所だ。宮水の家系に入れ替わり能力があるとして、一体なぜ、縁もゆかりも無い、遠く離れた東京の地に生きる少年が、三葉と入れ替わらなければならなかったのか。男女の出会いとか、人と人とのつながりとか、そういうものに理由はいらないとかいう考え方も出来るし、同じ日、同じ時にあの彗星を見上げていたという理由付けも出来るけど、どこかはっきりと「ぼく」と「きみ」が繋がる決定的な理由を見つけられなかったという点は、僕の中で生まれたもやもやの理由だと思う。

 ただ、そういう明確な理由付けがこの物語に無くても『君の名は。』が傑作であることは明確だと思う。SF的リアリティなんて難しいものは犬に喰わせてしまえ、大事なことはつまり「きみ」と「ぼく」の思いなんだという一貫した作風の流れを感じて、その辺りはあくまで分かりやすさや面白さを重視した展開だと思えば、作中の矛盾とかを割り切って、きっと純粋な心で物語を楽しめる。

「振り返らなかった」物語から、「振り返ることができた」物語へ

 多くの人が感想や考察で書いているように、『ほしのこえ』では逢えない距離にまで離れてしまった物語を、『秒速5センチメートル』は、逢えないことで分岐点が分かれてしまった二人の物語を。他にも様々な理由で男女の断絶や、会えない距離や結ばれない切なさを描いてきた新海誠が、最終的に「逢えた」物語を描いたこと自体が『君の名は。』の価値なのだと僕は感じた。振り返らない物語から、振り返る物語へ。自分自身が描いてきた作品に対するセルフアンサー的な作品である側面も、存在するのかもしれない。

 想いは時を超越する。愛は地球を救う。遠く遠く離れていても、きみのことが分かるように。難しいことは言わずにそれでいいんだと思う。きっとそれで。

 どうやらこのスピンオフ小説で三葉側の話が掘り下げられるということで、物語の不明瞭な部分が補完されることも期待したい。作者の加納新太さんは『秒速5センチメートル』のノベライズでもとても素晴らしい文体で別視点の物語を書いてくれていたので、これを読むのが凄く楽しみ。
lilith2nd.hatenablog.com
 公開当時に『言の葉の庭』の感想も書いてますので、こちらもよろしければ。

*1:何がキツイかって、僕が高校生の頃から苦手なRADWIMPSが主題歌で、その点一番不満だったのだけど、実際見に行ったらやたらと感動的な場面で挿入歌に使われてて、それが一番つらかった。人気なバンドだから仕方ないけど、この一点が非常にストレスで、感動の五割くらいは失われていた。個人的な好みだからもはやどうしようもないけど、そのどうしようもなさが余計につらい

*2:携帯のメッセージでのやりとりが『ほしのこえ』で、かつ、携帯が無かったがゆえに遠かった二人の距離を描いた『秒速5センチメートル』を踏まえると面白い

*3:僕も三葉ちゃんのアレ飲みたいですね

*4:クレーターや隕石、流星群が超常現象の引き金という事で『黄泉がえり』を思い出した。