402号室の鏡像

あるいはその裏側

「ようこそ『恐竜の世界』へ」『ジュラシック・ワールド/炎の王国』感想、考察

ジュラシック・ワールド/炎の王国 (小学館文庫)

ジュラシック・ワールド/炎の王国 (小学館文庫)

ジュラシック・ワールド インドラプトル FVW27

ジュラシック・ワールド インドラプトル FVW27

ハイブリッド恐竜インドミナス・レックスとT-REXの激しいバトルで崩壊した「ジュラシック・ワールド」があるイスラ・ヌブラル島の火山に、噴火の予兆が見られた。恐竜たちを見殺しにするのか、彼らを救うべきか。テーマパークの運営責任者だったクレア(ブライス・ダラス・ハワード)と恐竜行動学の専門家であるオーウェンクリス・プラット)は、悩みながらも恐竜救出を決意し島へ向かうが、火山が噴火してしまい……。

ジュラシック・ワールド/炎の王国 (2018) - シネマトゥデイ

 公開日に不安と期待が入り混じった気持ちで見に行って、先日4DX上映で二回目を鑑賞してからようやく記事を書くことが出来た。僕がいかにジュラシックパーク厄介勢というのは
lilith2nd.hatenablog.com
 是非一度、こちらの記事を読んでみて欲しいのだけど、結論から言うと今作『炎の王国』は個人的にかなり見所のある作品だと思ったので、シリーズを改めて振り返る意味でも語っていきたい。ネタバレ満載なので、未見の方はスルー推奨。

「二作目」として、そして『ワールド』最新作として

 今作『炎の王国』は、ジュラシックシリーズ五作目として、そして三部構成の二作目としての位置づけで、ナンバリングを意識した作品作りをしている。

 崩壊後のパークで野生化した恐竜、それを保護しようとする人間たちとは反対に、恐竜を捕獲して金儲けに使おうとする悪徳ハンター達、都市に輸送されその先で脱走する恐竜、そしてお馴染みカオス理論学者であrイアン・マルカム博士の再登場など、シリーズ二作目である『ロスト・ワールド』を意識したプロットは勿論、『パーク』の続編でありながら『ワールド』の二作目として意識した演出が、今作には多く見られる。前半は噴火の影響で溶岩に飲み込まれつつあるイスラ・ヌブラル島の終焉を描き、*1後半では島を出てロックウッド卿の屋敷に舞台を移す。こちらでは一層『ワールド』らしさを強調しつつ、今作でメガホンを取ったJ・A・バヨナ監督お得意のスパニッシュ・ホラーらしき演出が多く見られる。前作でパークを崩壊に導いたインドミナス・レックス、そして更に高い知能と社会性を併せ持つヴェロキラプトルの遺伝子を併せ持つ生物兵器インドラプトルが、洋館という閉鎖空間にて人々を恐怖のどん底に陥れる。前半のディザスター映画的雰囲気から後半にいたるまでガラリと変わる作風がこの作品の魅力であり、恐竜が持ちうるロマンとホラーの要素、両方の特性を併せ持つジュラシックシリーズの映画らしい出来に仕上がっている。

インドラプトルという新たなる脅威

 前作におけるインドミナス・レックスに引き続き、人間のエゴと欲望により創造された人工恐竜インドラプトルが引き起こす恐怖は、ジュラシックパークの一作目で印象深かった、ヴェロキラプトルの姿*2を連想させる。ヴェロキラプトル以上にエイリアンやクリーチャーのような無機質な恐怖感を掻き立てられる外見のインドラプトルは、人間の指示に従う生物兵器としてプログラムされている。しかしその知性を用いて檻から逃げ出したインドラプトルは案の定、人間の制御下から解き放たれ、多くの人間を襲う。これは結局、毎度のことではあるが「自然は人間に制御出来ない」ということの現れなのだと個人的には感じた。例えどのように遺伝子を改造し、人間の言うことを聞くようプログラムしようとも、結局根底に存在するのは生物としての本能であり、それを幾ら理論で封じ込めようとしても動物である以上、無駄なのだと。ジュラシックパークの崩壊から、繰り返し語られているにも関わらず案の定人間は愚かな過ちを繰り返し、再度多くの犠牲を出してしまう。パークにおけるラプトルが檻から脱走し、集団で人間を襲ったように、更にその特性が強化されたインドラプトルも同じく、より凶暴化した存在として人を襲う。恐竜の面影を残しながらどこかその振る舞いは人間的であり、知能を持った存在が明確な意思を伴い迫り来る恐怖が、毎度おなじみ恐竜に追われる子役であるメイジー・ロックウッドの視点で描かれている。子供にとっては侵されざる聖域である「ベッドの中」にまで迫り来るインドラプトルの姿は恐竜を超えた「悪魔」のようなおぞましさまで感じるほど、悪い夢を見ているような生理的な嫌悪感を覚える存在であり、新たに生み出された人工恐竜としてのインパクトは抜群だった。

ヴェロキラプトルというもう一つの「主役」

 そして、インドラプトルの脅威に対抗する存在が、遺伝子の提供元であるヴェロキラプトル「ブルー」。前作ジュラシックワールドにおいては、人類に次ぎ地球史上二番目に賢い動物であり、中でも最も社会性や協調性を見せた個体として、ブルーの存在が強調されている。今作品では前作に引き続き、ヴェロキラプトルを調教し、恐竜が高い知能を持ち社会性を有することを証明したオーウェン・グレイディーとブルーの関係性が中心になりストーリーが語られる。ブルーはヴェロキラプトルの中でもとりわけ知能が高い存在として幼少期から注目されており、オーウェンとブルーが築き上げてきた信頼関係を元に証明された研究結果が、インドラプトルの高い知性に反映されている。これはインドミナス・レックスとティラノサウルス・レックスの関係性に似ており、つまり、オーウェンとブルーは間接的にインドラプトルの「産みの親」と言っても過言ではない。意識せずとも彼らの存在がインドラプトルという怪物を創り上げてしまったのは間違いなく、そんな彼らが計らずもインドラプトルと対峙することになったのはまた必然と言えたのかもしれない。シリーズ的に言えばヴェロキラプトルはシリーズを通して、狡猾かつ獰猛な狩人として、人間を恐怖に陥れてきた。しかしここに来て、ブルーはオーウェンの危機を救い、インドラプトル相手に勇敢に戦い、そして勝利した。シリーズの裏側でTレックスと共に魅力を放ち続けてきたヴェロキラプトルが、改めてジュラシックシリーズの花形なのだと証明した瞬間である。オーウェンとブルーの築き上げてきた『絆』それこそが、人間と自然が共存出来るというささやかな『希望』なのかもしれない。

何度と無く繰り返された警鐘、そして代償

 この作品ではベンジャミン・ロックウッドという老人とその孫娘であるメイジーがストーリーに欠かせない要因として語られる。
 ジュラシックパーク創立者ジョン・ハモンドの盟友として語られるベンジャミン・ロックウッドは、かつてロックウッド財団の屋敷の地下で日々遺伝子研究に明け暮れ、ハモンドと共に多くの歳月を経て、恐竜復活を成し遂げた偉人である。しかしロックウッドはその過程で最愛の娘を亡くし、その失意の元、最大禁忌である「人間のクローン」に手を染めてしまう。そのことに対して激怒したハモンドはロックウッドをプロジェクトから追い出し、同じ夢を追った友情は潰えてしまい、ハモンドはその後独力でジュラシックパークの創立を成し遂げた。実は創られたクローンの正体は、ロックウッドの孫娘として語られていた少女メイジーだった。元から恐竜が大好きな子供だったメイジーは、自身はロックウッドの娘、つまり自分が母と思っていた女性のクローンであることを知ってしまう。メイジーもまた、人間のエゴと欲望が元で生み出された生命であり、クローンの恐竜と全く同じ存在と言える。メイジーは無理矢理連れてこられた挙げ句、最後にはガスで死に至ろうとしている恐竜に対して同情や共感に近い念を持つ。人間により生み出された挙げ句、人間の好き勝手に弄ばれる存在は、命の在り方として決して正しくはない。本来自由であり、誰に抑圧されるわけでもない自然に生きるべきである恐竜を、メイジーは最後、自らの手で、外界に解き放ってしまう。

 一見、それは安易な行動に見える。恐竜が世に放たれてしまえば、環境や生態系の変化は計り知れず、あるいは街に出れば人間の被害が出るかもしれない。果たして恐竜が人間の世界で生きていけるのか、適応出来るのかすら分からない中で、メイジーが取った行動は衝動的な思慮の浅さを感じられる。しかし、彼女の行動は果たして誰に止める権利があったのだろうか。メイジーは幼少期からずっと、屋敷の中で育てられてきた。十歳を超える年齢にも関わらず、もしかしたら学校にすら行っていないどころか彼女はクローン人間だ。下手をすれば戸籍すら持っていない可能性だって考えられる。ロックウッドの禁忌に触れた行動により生み出されたメイジーが自由になりたいという願いは、恐竜だって抱いたものかもしれない。鳥かごの中で自由を失い、外の世界を知らない人生。少なくとも彼女の選択が間違いだったとしても、それを「普通の人間」が断罪する権利はどこにも無いのだ。そして、人間は自らのエゴが生み出した代償を、払うべき時が来たのかもしれない。

「ようこそ『ジュラシックワールド』へ」

「人は自然を服従させることは出来ない、しかし理解し、共存することが出来る」という事はジュラシックシリーズで何度も語られたことではあるが、今作ではその「共存」という調和が人間の行動によってついに乱れてしまったことが示唆されている。人は自然の理を乱し、生命を創造するという神の領域にまで足を踏み入れてしまった。その代償により、何度もしっぺ返しを受けてきた。パークは二度も経営破綻し、挙げ句の果てに再び都会に恐竜が解き放たれる始末。今作のラストでは恐竜たちがアメリカの土地に解き放たれ、陸・海・空の全てに恐竜や古代生物が存在するという自体に陥っている。それだけでは無く、オークションで武器商人や悪徳富豪たちに渡った恐竜や、再び生き残ったヘンリー・ウーにより持ち出された遺伝子の存在は、全世界に恐竜ないし遺伝子技術の存在が行き渡ってしまったことを表している。

 つまり、全世界にて恐竜が生まれる存在が示唆され、再び愚かな人間が、恐竜を支配しようとしそのしっぺ返しを受ける可能性が大いに出てきたということだ。序盤、そして終盤に挿入されるイアン・マルカム博士のコメント。幾度となくマルカム博士は「自然をおもちゃにし、いじくりまわしている」と語っている。愚かにも人間は遺伝子技術を手に入れてから過ちを繰り返し続けている。核兵器に比喩されるように、よく分かっていないものをよく分かっていないまま使う内に、破滅への道を進んでいた――実はそれは、既に地球の主導権が人類ではなく、恐竜に移り変わっていく過程なのかもしれない。それを考えるとエンドロール後に流れる映像で、ラスベガス上空を飛び回るプテラノドンの姿*3がとても印象的に見える。もはや恐竜はただの「公園」に収まる存在ではなく、新たなる「世界」を築き上げようとしている。『Fallen kingdom』*4=直訳で『王国の没落』を意味する原題は、溶岩に沈んだイスラ・ヌブラル島を指すと共に、もしかしたら人類が地球上に築き上げてきた王国の没落を示唆しており、地球が6500万年の時を経て再び恐竜のものになろうとしている。それこそが『ジュラシック・パーク』から『ジュラシック・ワールド』=即ち「恐竜の世界」を示唆するタイトルへ進化を遂げた、真なる意味なのかもしれない。

それでも、僕らは恐竜が大好きだから

 ジュラシック・ワールドは三部作を予定していると言うことで、果たして次回作は一体どうなるのだろうかと楽しみな気持ちで今から待ちきれない気持ちでいっぱいなのだが、常に旧作を意識した作風で僕らを懐かしさに浸らせながら、毎度新たな試みで度肝を抜いてきた『ワールド』制作陣は、シリーズの最終幕を締め括るラストに一体どんな『恐竜の世界』を魅せてくれるのだろうか。全世界に広がった遺伝子技術、人間たちと恐竜は一体どんな関係性を地球上に作り上げるのだろうか。共存か、あるいはどちらかの絶滅か。しかし僕個人としては、ある一点に希望を抱きたいと思っている。前作に引き続き、危険な目に巻き込まれたオーウェンと、自身の出自や事件の渦中を幼い身で体験したメイジーオーウェンは言う。「きみは、恐竜が好きかい?」怯えながらも頷くメイジーに「ぼくも大好きだ」と返したオーウェン

 みんな恐竜が大好きだ。大人も子供も、恐竜は僕らの胸にあるロマンを何よりも沸き立たせてくれる、最高の存在だ。だからこそ、ジョン・ハモンドは子供の頃の夢を老いて尚忘れずに、ジュラシックパークを作った。それが例え失敗だったとしても、夢を叶える過程で歪んだ思想が混じっていたとしても、その理念だけは間違ったものではない。

 願わくば新たに生み出される『ジュラシック・ワールド』が、人間と恐竜が共に歩み寄れる世界であるように。かつてジュラシック・パークに魅せられた一人の恐竜少年として、今はただ、完結作を心待ちにしたい。

*1:イスラ・ヌブラルが火山島であるという設定はマイクル・クライトンの原作でもあった要素で、SEGAアーケードゲームでも表現されている。あのアーケードゲームが子供の頃は凄く好きだった

*2:床をコツコツと鉤爪で叩く所や爪でドアを開ける所や、メイジーが狭い扉に入り込んで走ってきたインドラプトルから逃れるシーンなど、一作目のヴェロキラプトルを連想させるシーンが凄く多かった

*3:このカットはコナン・ドイル原作の『失われた世界』のラストをオマージュしたものに間違いない。ジュラシックパークの元ネタであり、更に二作目『ロスト・ワールド』の題名の元でもある『失われた世界』は、南米ギアナ高地に生き残っていた古代の世界を冒険する物語で、そのラストでは証拠に持ち帰った翼竜が脱走し、ロンドン上空を飛び回るという場面がある。このネタを持ってくるというバヨナ監督の手腕に思わずニヤリとさせられた

*4:敢えて本文では書かなかったけどクソ芸能人吹き替えに加え『炎の王国』とか言うクソ邦題を付けた配給担当を小一時間問い詰めたいと思っている。普通に『フォーレン・キングダム』とかオマージュを込めて『ロスト・キングダム』とかでも十分分かり易くなったと思うし『炎の王国』では本文でも語ったダブルミーニングが機能しなくなってしまう。というか炎の王国要素は前半で終了なんですが、それは……?